「農民」記事データベース20130311-1060-07

3・11 大震災から2年

被災地は今
くらしは? 復興は? 生業は?
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「フクシマ」を福島に戻す

“あきらめない”気持ちずっと

 福島・安達地方農民連

  二本松 佐藤佐市さん

画像 大正12年(1923年)生まれの私の父が亡くなったのは、2011年1月でした。幸か不幸か? 3・11の現実を見ずにこの世を去りました。その父が43年前に言っていたことを思い出しています。「作らないものに金をくれるとは」

 1970年に私は就農しましたが、当時始まった減反政策に対する「嘆き」でした。その後の日本農業、とりわけ私たちの中山間地の農業は衰退の一途をたどってきました。でも、私たちは集落の仲間やそれぞれの人のつながりのなかで「生きる場所」としての農村地域を守ってきました。

 仲間と一緒に“計って対策を”

 3・11の大震災、原発事故は私たちにとって、「これでもか」というに等しい仕打ちのようでした。

 東電福島第一原発から40〜50キロの私たち二本松市東和地域は、これも幸か不幸か? 避難地域にはなりませんでした。かろうじて農業を続けることができました。避難せざるをえなかった人たちのことを思うと、「申し訳ない」気持ちになりました。

 だから、「作れる人はつくろうよ」そして、「計って、計って、対策を」。農民連の仲間や、NPOゆうきの里東和の仲間や、集落の人たちと一緒に「けっして諦めない」気持ちでこの2年間やってきました。

 突然“化け物”に断ち切られた

 私の住む二本松市西谷集落の公会堂(集会所)前に設置されたモニタリングポストが示す放射線量の値は今も0・4〜0・5を記しています。

 私は、正常な自然と人の循環の中からこそ、まともな食べ物と暮らしを得ることができる、そう思って有機農業を続けてきました。それは放射能という「化け物」によって見事に断ち切られました。

 しかし2年目になってわかったことは、相当高い放射性物質を含む土壌から収穫された作物でも、計ってみるとほとんどNOデータ(検出されず)かそれに近い数値しか検出されないのです(山の落ち葉やキノコ類はまだまだ高い)。土の抱擁力はすごいのですが、汚染されていることには変わりないので悩ましい。

 ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ、人災がつくった世界の共通語。

 私たちは「福島」に早く戻すように、「あきらめない」。

 久しぶりに墓参りに行こう。

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(新聞「農民」2013.3.11付)
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2013年3月

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