東海・北陸ワイド版(8)岐 阜
過酷な年貢取り立てから百姓かばって打ち首に香華絶えない「義民代官」の墓岐阜県恵那郡岩村町の大円寺近くの小高い丘に、義民代官・橋本祐三郎の墓石があります。岩村農民組合の梅田知明さんと永井孝夫さんの案内で訪ねました。文政(一八一八年)〜天保(一八四三年)の頃、数年にわたり、六月の田植えの時に寒くて綿入れを着て行ったり、秋には水田に氷が張るなどの天候不順で、収穫は三〇〜五〇%ということもありました。 しかし、岩村藩は、高山騒動(百姓一揆)に出兵したり、江戸藩邸の建設費用などで藩財政が逼迫し、年貢米を情け容赦なく取り立てました。このため多くの百姓が餓死したり、乞食になったり、行き倒れて亡くなるという大変な状況でした。 橋本祐三郎代官は、定められた年貢米をどうしても出せない百姓を許し、努力して来年、再来年に出すようにと話しました。藩主には「全部取り立てた」とウソの報告をし、郷倉の入口には米俵を多く積み、豊作になったら数を合わせるようにしました。 そのうち、藩政改革のためと称して江戸から来た上役が、郷倉を検査してウソがばれてしましました。橋本代官は、年貢米を私物化し横領したという罪を着せられ、悪役人として捕らえられ、死刑と決まりました。百姓らは助命嘆願しましたが、効果はありませんでした。 百姓が武士の言うことを聞き、素直に年貢を出し、夫役などに従順に応じるようにするために、数千人の百姓の前で橋本代官は打ち首にされました。文政十二年二月五日のことです。百姓らは悲しみ、橋本代官の首をもらい受ける嘆願を続け、ようやく五月三日に墓地に埋葬しました。岩村藩は、江戸に知れることを恐れ、百姓に外へもらさぬよう厳しく申しつけました。 橋本代官を殺した家老は領民から信頼されず、改革の名の元に行った政治で領民を苦しみ続け、百姓一揆も起き、閉門憤死したという記録もあります。 墓地付近の人たちが現在まで墓を守り続け、いつも花を供えています。
(岐阜県連・岩田昭/新聞「農民」1999.10.11付)
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