「農民」記事データベース20130902-1083-06

語り継ぐ満蒙開拓
(下)

宮城県農民連(丸森町在住)
佐藤 三吉さん(83)の手記
(2)


初めて“死”という現実に直面
悲劇・惨禍伝える“語り部”に

 “この大平原が墓場と心得よ”

 1945年8月初旬、北満州の平原は、短い夏を惜しむかのようにあらゆる野草の花が一斉に咲き乱れていました。

 小高い丘の上に立った陸軍の指揮官(階級は記憶にない)が長い軍刀の柄を握り締め、訓辞を垂れました。

 いわく、「男児志を立てて郷関を出(い)ず、学若(も)し成る無くんば死すとも還(かえ)らず、骨を埋(うず)む豈(あに)唯(ただ)墳墓の地のみならんや、人間到る處(ところ)に青山有り」。漢詩「壁に題す」(松村文三作)を引用したものです。

 すなわち「死すとも帰れず」と「骨を埋めるところは先祖の墓とは限らない」のところを力説した訓辞であり、これが私たちに対する歓迎の言葉でした。指揮官はさらに続けます。見よ、この花に飾られた大平原が君たちの墓場と心得よ、と。私たちはそこで初めて死、という現実をかみ締めました。

 ソ連との不可侵条約を信じた関東軍の第一線には、一機、一台の重火器も見当たりませんでした。徴集した現地人と、小銃だけの軍人と私たちがスコップで戦車壕(ごう)掘りでした。こちらに戦車がないので深い壕に敵の戦車を落とす、という作戦でした。あと3日終戦の決定が遅れたなら、ソ連の重戦車のキャタピラ下にすり潰され、痕跡もとどめられなかったであろうと思います。

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満蒙開拓青少年義勇軍の証言を集めた「みやぎ憲法九条の会」発行の資料集

 ソ連軍の侵攻で苦しい逃避行に

 数日後、事態は急転直下、第一線から訓練所に帰れ、との命令でした。私たちは知る由もなかったのですが、もうその時決定的に敗戦した時だったと思います。

 数日ぶりで帰った訓練所は、日本の終わりを早く知った現地人にすっかり荒らされ、見るも無残な光景でした。そこで初めて敗戦の知らせを受けました。鎧袖(がいしゅう)一触、無敵を誇った関東軍もあえなく敗れ、食堂に集められ、教官は、流れ落ちる滂沱(ぼうだ)の涙をぬぐいもせず、拳を握り締め、声を震わせて敗戦を伝えました。あの形相は今なお鮮明に脳裏に焼きついて離れません。

 ソ連軍による虐殺を恐れる私たちは、身にまとえる最大のものを抱え逃避行に入りました。夏草の生い茂る中を背負えるだけ背負っての当てのない彷徨(ほうこう)。苦しさに泣き出す子もいました。

 流浪、彷徨の末明日はわが身と

 途中の経緯は68年前の彼方(かなた)に忘却しましたが、結果としてソ連軍の捕虜となり、長い監禁生活の後、貨車に乗せられ、ソビエトのブラゴエスチェンスクまで送られ、そこから捕虜収容所に移り重労働になるはずでした。

 しかし、あちらの高級指揮官の判断でこれは軍人ではない、子どもであるという判断の結果、釈放となりました。その後南満州の奉天(現在の潘陽)に到達するまで40日かかり、食うや食わずの毎日を過ごし、冬の迫る12月にようやく日本人避難民の収容所に入りました。

 そこで前述の悲劇が始まりました。訓練所での劣悪な食生活から尾を引いた揚げ句に流浪、彷徨の生活ですっかりやせ細った体にさらに追い打ちをかける寒さと病気、不衛生、医師も薬もなく、体中しらみを飼い、そこで私たちの仲間の約半数の90人が帰らぬ人となりました。

 明日はわが身の環境の中、虚空をにらみ、母を呼び息絶えた友たち、存命なら83歳になっていたであろう痛惜とあてどない憤怒はわが生涯のものです。

 しかしこの悲劇、惨禍を伝える語り部も間もなくいなくなります。風化を遮るための微力になることを祈って拙文を呈します。

 2013年盛夏

(おわり)

 〈注〉連載(中)に出てきた38式歩兵銃とは、明治30年(1897年)日露戦争の時点で使用したものを明治38年(1905年)に改良した歩兵銃。台座を含めた全長は1276ミリ、着剣まで1663ミリ。重量は4100グラム。私の身長は1490ミリですが14歳当時は1450ミリくらいと推定され、当然着剣時は頭の上。実弾の重量は判然としませんので、知っている方はお知らせください。仮に一発20グラムとして100発で2キロ。銃+弾=6100グラム。これを14歳の少年に担がせた事実は後世のために残したい。

 佐藤三吉 Tel・Fax 0224(72)6054

(新聞「農民」2013.9.2付)
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2013年9月

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