「農民」記事データベース20130826-1082-06

語り継ぐ満蒙開拓
(中)

宮城県農民連(丸森町在住)
佐藤 三吉さん(83)の手記
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食料は逼迫 さながら生き地獄
最初から捨て石だった私たち

 暑い夏が来ると強烈な思い出が

画像 今年も暑い夏がやってきました。私はこの暑い夏が訪れると、強烈な思い出がよみがえります。昭和20年(1945年)8月、今を去ること68年前、旧満州(現在の中国北東部)の奥地で、ソビエトとの国境からほど遠くない嫩江(ノンジャン)というところで、太平洋戦争の終結を迎えました。換言すれば敗戦でした。

 私は昭和5年(1930年)生まれ、当年とって83歳になります。昭和12年(1937年)、小学校に入学した年の7月に日中戦争が勃発し、旧制の高等小学校を終える昭和20年まで、戦時一色の教育を受けて育った世代です。「欲しがりません、勝つまでは、鬼畜米英撃滅、断じて行えば鬼人もこれを避く」など、あらゆる勇ましい、戦意高揚のための標語が作られ、国は、国策として、国力の増大と他国の侵略のため、たくさんの日本人を満州に送り込みました。

 甘言で勧誘され義勇軍の一員に

 その一環として昭和13年(1938年)に満蒙開拓青少年義勇軍と名付けた、14歳の少年8万数千人を9年間にわたり満州に送り込みました。国はその隊員を募集するために、各学校に圧力を掛け、嫌がる親を説得するために何度も足を運び、中にはその意思があれば一級下の13歳までも受け入れました。「御国のために、盟邦の国満州、五族協和、王道楽土、地味豊かな豊穣の農地3町歩をただでもらえる」とか、あらゆる甘言を駆使して勧誘し集められた隊員の中に私も入りました。

 焼け野原の東京敗戦の不安なく

 昭和20年5月、内地で3カ月の訓練を受け、いよいよ満州に向けての出発となりました。東京は3月の空襲で灰燼(かいじん)に帰し、高架鉄道から見下ろす市街は見渡す限りに焼け野原となっていました。それを見ても、いささかの不安(敗戦)も抱かず、途中空襲の間隙をくぐり抜け10日ほどを費やし、北満州の訓練所に到着しました。

 しかし、当時の参謀本部は、「南に兵力を出しきった関東軍に満州を守れる力はない。大連、新京、図門を結ぶ線を引いてここから北は放棄する」という決定をしていた、ということを文献により知りましたが、最初から私たちは捨て石だったのです。

 想像していた桃源郷と大違い

 しかし、着いたところはイメージしていた桃源郷ではありませんでした。5月半ばだというのに、いまだに霜が降りており、宿舎は土で固めた、かろうじて雨露をしのぐだけのもの。満州は穀倉地帯だから食うものは十分だろうと思っていたら、一汁一菜の食事は量、質とも最低のもの。育ち盛りの少年たちの食欲を充足させるにはほど遠いものでした。

 かの満州でも食料は逼迫(ひっぱく)していたのでした。後述する悲惨な飢え死には、もうその時点で形成されていたのでした。弱い者いじめ、盗み、リンチ、脱走。こんな生活は現在の刑務所にもありえないこと。さながら生き地獄でした。飢えた私たちは、野菜倉庫に入り、バレイショを盗み生でかじりました。発見されれば厳しい体罰が待っていました。

 一度たりとも軍事教練受けず

 入所70日余り、突如悲劇が到来しました。日ソ不可侵条約を無視したソ連軍が激しい勢いで満州に進攻してきました。私たちは即刻関東軍に編入され、第一線に向かいました。

 本部前の広場には、ピカピカに磨かれた、38式歩兵銃が立ててありました。

(注、軍隊では通常、休憩時やその他銃を身辺から離してもよいときには、最低3丁の銃を組み立てるのをサジュウと言いましたが、鎖銃か叉銃か、軍隊用語を知る人は私の身辺にはいなくなりましたので、とりあえず鎖銃とします。軍隊にはその鎖銃線を横切ると営倉という厳罰があったと聞いております)

 私たちには「その鎖銃線に入り、その銃を各自取れ」と言うのですが、驚くなかれ、それまで一度たりとも銃を手にした軍事教練を受けていなかったのです。銃を地面に倒し怒鳴られたりの結果一人一丁の銃と実弾100発を渡され、第一線に向かいました。

(つづく)

(新聞「農民」2013.8.26付)
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2013年8月

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