「農民」記事データベース20120206-1007-11

手記 私の3・11
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生きる場から切り離され
いつか戻れる日までは…

福島から愛媛へ避難した農家 渡部寛志(33)

 3月11日は、「生きる」とはどういうことか、「命をつなぐ」とはどういうことかを考えさせられる日となりました。

 あまりに大きな津波によって、多くの知人、親類が、目の前の冷たい泥水の中で死んでいきました。そして、福島第一原子力発電所の爆発事故によって、私たちは、『生きる場』から切り離されました。私の家は、福島第一原子力発電所から約13キロ離れた南相馬市にあります。幸いわが家と家族は無事でしたが、それでも、直視できないような惨状を目の当たりにして、これは“夢か現実か”と何度も思いました。

 今なお続く原子力災害は、人間が自らの手で起こしてしまった人災です。仕方のない出来事だったと受け入れてしまったら、再びこの惨事が発生する可能性を残してしまいます。絶対起こってはならなかったこととして、政府・東電とたたかい、バカげた事態を起こしてしまった『今』を変えていかなければ、と感じています。

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家族が力を合わせて、ふるさとにもどれる日を待つ渡部さん一家

 ヒトの歴史は「誤り」と「後悔」の繰り返しかもしれません。けれど、きっと私たちの父や母、じいちゃん、ばあちゃん、そして祖先たちは、これからを思い、その時々を必死に生きてきたはずです。私も同じく「これからの未来を生きる子どもたちに何を残してやれるのだろうか」と考え続けながら生きていこうと思っています。

 父、母、祖母は福島にとどまりましたが、私は妻と7歳、3歳の娘とともに愛媛県伊予市に避難しました。そして、先の見えない現状に堪えかねて、愛媛で農業を再開しました。昨年は、たった2アールですが意地で米づくりをしました。今年は、採卵養鶏を再開させます。愛媛特産のミカン栽培にも挑戦し、福島に送り届けることで、これからも福島とずっとつながり続けたいと願っています。

 いつか戻るその日まで、福島とともに生きる農民として。笑顔あふれる明日のために。

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(新聞「農民」2012.2.6付)
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2012年2月

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