「農民」記事データベース20110117-956-07

日韓交流と歴史探訪の旅
》下《

農民連関東ブロック(埼玉) 松本 慎一

関連/日韓交流と歴史探訪の旅 》上《
  /日韓交流と歴史探訪の旅 》下《


知られていない秀吉軍の残虐非道
両国には500年の平和・友好の歴史も

 韓国の釜山市には、小高い龍頭山・龍尾山の上に釜山タワー(高さ120メートル)があります。展望台からの眺めは360度の大パノラマで、誰もが訪ねる観光のシンボルになっています。

 多くの日本人は知らないのですが、この場所は足利時代から江戸時代まで日本倭館(現在の大使館)のあったところです。豊臣秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役、1592年〜1598年)を除けば、500年近くの間、日本の外交・交易の窓口として大きな役割を果たしてきました。

 とりわけ、江戸時代の17世紀中ごろには、両国が負担しあって10万坪という広大な土地に新たな倭館を3年がかりで建設し、500人以上の日本人が住んでいたといいます。その偉容を物語る当時の倭館の古地図が、展望台の壁にかけられていました。

 しかし、平和と友好の両国間の歴史に影を落としているのが、豊臣秀吉による朝鮮侵略です。釜山から北へ40キロの蔚山(ウルサン)には、いずれも加藤清正が築城した蔚山倭城と西生浦(ソセンボ)倭城があります。特に西生浦倭城は、秀吉軍最大の城で周囲が13キロもありました。こうした倭城を拠点に、秀吉軍が何の罪もない朝鮮の人民に筆舌に尽くしがたい残虐非道な行為を行ったことは、歴史の真実です。

画像
今も残る「西生浦倭城」の石垣

 蔚山倭城は最後のたたかいがあったところで、秀吉軍6000人、中国の明軍4500人、朝鮮軍1000人以上が犠牲になり、秀吉軍は命からがら逃げ帰りました。

 一方、蔚山から西に30キロのところにある大邱(テグ)には「沙也可(さやか)将軍村」があり、観光客が後を絶ちません。秀吉の命により朝鮮に渡った沙也可将軍(韓国名は金忠善。現在の和歌山にいた雑賀(さいか)衆との説もある)は、3000人の将兵とともに「古代以来、日本にすぐれた文化や進んだ技術をもたらしてくれた朝鮮を攻める理由は何もない」と反旗を翻して秀吉軍を撃退し、朝鮮に残って力を尽くしたと言います。こういう日本人もいたのです。

 今回の訪問を通じて感じたことは、長い平和と友好の歴史があったことと、日本人があまりにも知らなすぎる秀吉軍の侵略の実態、そして日韓強制併合による深い傷跡がいまも残っていることでした。こうした歴史の上に立って、新しい両国の関係を作っていくためには、農民をはじめ各界各層による民間の交流が何よりも必要だということを、あらためて思いました。

(おわり)

(新聞「農民」2011.1.17付)
ライン

2011年1月

農民運動全国連合会(略称:農民連)
〒173-0025
東京都板橋区熊野町47-11
社医研センター2階
TEL (03)5966-2224

本サイト掲載の記事、写真等の無断転載を禁じます。
Copyright(c)1998-2011, 農民運動全国連合会