日韓交流と歴史探訪の旅
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今も残る「西生浦倭城」の石垣 |
蔚山倭城は最後のたたかいがあったところで、秀吉軍6000人、中国の明軍4500人、朝鮮軍1000人以上が犠牲になり、秀吉軍は命からがら逃げ帰りました。
一方、蔚山から西に30キロのところにある大邱(テグ)には「沙也可(さやか)将軍村」があり、観光客が後を絶ちません。秀吉の命により朝鮮に渡った沙也可将軍(韓国名は金忠善。現在の和歌山にいた雑賀(さいか)衆との説もある)は、3000人の将兵とともに「古代以来、日本にすぐれた文化や進んだ技術をもたらしてくれた朝鮮を攻める理由は何もない」と反旗を翻して秀吉軍を撃退し、朝鮮に残って力を尽くしたと言います。こういう日本人もいたのです。
今回の訪問を通じて感じたことは、長い平和と友好の歴史があったことと、日本人があまりにも知らなすぎる秀吉軍の侵略の実態、そして日韓強制併合による深い傷跡がいまも残っていることでした。こうした歴史の上に立って、新しい両国の関係を作っていくためには、農民をはじめ各界各層による民間の交流が何よりも必要だということを、あらためて思いました。
[2011年1月]
農民運動全国連合会(略称:農民連)
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