「農民」記事データベース20031006-605-01

三上満さんが語る賢治と農業〈1-1〉

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  /農業実践から詩や童話・文学作品を生み出す


 三上満さんの書かれた『明日への銀河鉄道 わが心の宮沢賢治』(新日本出版社)が、今年度(第十八回)の岩手日報文学賞の賢治賞を受賞しました。「選考経過」の中で、斎藤文一選考委員長(新潟大学名誉教授)は「著者が賢治思想の内側に身を置き、精魂をこめて共に生き、共に格闘する姿が描かれている」と絶賛しています。
 「五十年以上にわたって胸の中にたまりたまっていて賢治のほとんどを形にすることができ」と本の「あとがき」に記している三上さん。三上さんには、たびたび本紙にも原稿を書いていただいていますが、賢治賞の受賞を記念して、宮沢賢治への思いを大いに語っていただきました。
 インタビュー中、声を詰まらせたり、涙を浮かべながら語る三上さん。その姿は、宮沢賢治への思いが並大抵でないことを痛感させられました。一時間の予定が倍近くになりました。インタビューを連載で紹介します。
(編集部・西村正昭)


みかみ・みつる さん
1932年東京生まれ。教育研究者。1955年東京大学教育学部卒業。東京都文京区立第一中学校、葛飾区立大道中学校教諭を経て都教組委員長、全教委員長、全労連議長などを歴任。現在、勤医会東葛看護専門学校校長、子どもの権利・文化全国センター代表委員。著書『学校、ここにある希望』『教師への伝言』『輝け 子どもたち』(以上、新日本出版社)『宮沢賢治 修羅への旅』(文、ルック、写真・小松健一)ほか。


農民に心寄せ「農は国の基」の精神にたどりつく

 今年の凶作に苦しむ農民を賢治思い出す

 宮沢賢治が「雨ニモマケズ」の詩で言っているように、今年は異常気象で「サムサノ夏」ですね。とりわけ、東北の太平洋側の稲作は、凶作で深刻な状況だと言われています。

 賢治賞受賞式(七月十九日)の前後や秋田で開催された日本母親大会、東北六県の看護学生の集い(八月九日、十日に秋田のわらび座)があり、何回か東北に行ったんです。

 列車の窓から田んぼを見ると、穂がついていない。これは大変なことだと思いました。その後の天気も好転しない。いもち病や不稔が発生し、凶作の心配が起きているという。

 まさに「サムサノ夏」という状況の中で、宮沢賢治が東北の農村で農民とともに苦悩したり、あるいは豊かな実りのために、それこそ東奔西走した姿を思い起こしました。

 最近、腹が立ってしょうがないのは、「米不足は起きない」とか「備蓄米があるから大丈夫」などと報道していることです。生産者の立場から、異常気象による冷害がどうなるかという生産者の立場からの報道は少ない。

 一方では、自民党の総裁選挙を連日ハデに扱った。冷害、凶作を政治の立場からどうするかという論争はそっちのけです。勘ぐればこの冷害を機に、いままで持て余していた古々米などを一気に処理する「チャンス到来」くらいに思っているかも知れない。

 大地にへばりつきがんばる農民の姿に

 賢治がいま私たちに伝えているものは、「農は国の基」という精神です。

 賢治は結構ハイカラだし、学問もしたし、おまけに大きな資産家の息子です。花巻では「宮沢まき」と言われる地方財閥の一員です。農学校の教師という職も得ていたわけですから、なにも百姓にならなくても、安楽に暮らしていける。そういう中で、賢治は岩手の農民に心を寄せ、「農こそ国の基」だという思想にたどりつく。これは賢治が盛岡高等農林で学びながら培った思想でもあろうし、「寒サノ夏ヤヒデリノトキ」には本当に苦しみながら大地にへばりついて頑張っている岩手農民の姿に、人間として生きるプライドを感じていたからです。

 『岩手県農業史』や『岩手県農地改革史』の歴史を紐解くと、岩手の地主・小作関係は、ちょっと特殊なんですね。他の県と比べて自作農の比率が非常に高い。昭和六〜八年の昭和恐慌、九年の凶作の時期に岩手県の自作農は没落した中小地主の土地を積極的に買った。東北で安定的に営農するには、最低、一〜三町歩くらいが必要だ。そういう自作農としての地位確立に自ら乗り出しました。凶作のなか、爪に灯ともし、出稼ぎをしながら、自立できる農民をめざした姿に頭さがる思いです。

 次から次に農民が相談に訪ねてきた

 私は、賢治イズムを実践する基盤がここにあったと思います。米作りに対する情熱は、自分の土地を自分で耕して収入を得て家族を養うという基盤に支えられていたんだと思います。そして米作りを助ける土壌学や肥料学、気象学などを学んだ賢治が、農村の指導者として、農民の中にとけ込んでいったんです。

 賢治は、羅須地人協会(らすちじんきょうかい)をつくり、農民たちを集めて土壌を調べ、肥料設計をする。土手にはどんな雑草が生えるとか、水の冷たさはどの程度とかなど、いろいろな情報を集めて肥料設計した。賢治がほぼ二年にわたってやった肥料設計は、二千枚以上と言われています。花巻の宮沢賢治記念館などにその一部が残されているけど、農民に書いてあげたわけですから、残っているものはあまりない。農民は賢治に作ってもらった肥料設計を見ながら農作業をしたのでしょう。

 しかし、それがけっして絵空事ではなかったことは、農民が次から次にと相談に訪ねてきたことからも分かります。しかも、賢治が亡くなる二、三日前までも農民は訪ねてきたが、「早く帰ってくれ」とは言わなかった。最後まで農民と付き合い、励ました。農民が帰ってから賢治は動けなくなる。それで弟の清六さんにおぶさるようにして二階に上がっていったのです。

 生産を営む一番の基礎は家族経営だ

 農民は情熱を燃やし、生産を営んでいく。その一番の基盤にあるのが、家族経営だと思います。これを育てる農政を、例えば不作の時には、翌年のための営農資金とか、それこそ無利子無担保の貸付をするとか、そういうような農政の可能性はあるはずなんですね。そんなことをまったく言わずに、「農家が土地を手放せばいいんだ」「限られた担い手とあとは企業にまかせればいいんだ」という。こういう農政は、賢治が訴えた「農は国の基」という根本の思想といかに違うか。賢治が墓場の中で必死で叫んでいると、私は思います。

 あの頃、陸羽132号という耐冷品種が開発され、賢治は積極的に普及しています。それから酸性土壌を中和する炭酸カルシウム、これは賢治の命名だそうですが、晩年は、病み上がりの体を石灰肥料を出荷していた東北砕石工場(大船渡線陸中松川駅の近くにある)を自分の死に場所と思ったのか、農村に対する自分の最後の思いを発揮する場所と思ったのか、嘱託となった。契約を読むと、給料は「年六〇〇円とし現物(石灰)支給」というものです。現物支給とは、石灰肥料をもらうことです。賢治は貯めて置いて農家に分けてしまうのです。

 岩手のみならず火山灰を主とした酸性土壌の多い農地では、中和する石灰粉が必需品であったのです。「石灰が足りないから」と鈴木東蔵社長から連絡がくると、「花巻の方にあるのを回してくれ」という。花巻にあるといっても賢治が給料でもらったものです。

(新聞「農民」2003.10.6付)
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2003年10月

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