「農民」記事データベース20010806-504-09

井野先生を悼む

農民連顧問 小林節夫

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 井野隆一先生が亡くなられた――そんなに重い病気にかかっておられたとは夢にも思っていませんでした。農民懇(農民運動の全国センターを考える懇談会)が発足してからは常任世話人として大変なご協力を頂きました。

 農民連が、食料・農業問題の共闘組織ではなく、農民自身のたたかう組織のナショナルセンター――農民組織の連合体という性格上役員としてでなく、顧問としてご協力頂くことになりましたが、先生ご自身もさすがに淋しそうでした。

 でも、先生はWTO協定批准とか、食管制度の廃止とか重要なたたかいの節目には、健康が許すかぎり、あるときは日比谷野外音楽堂、あるときは農水省や国会前の座り込みに参加され、怒りをこめて参加者と会場や道端に腰をおろして、求められれば一研究者として激励の挨拶をされました。つつましやかに、ひっそりとした、こういうお姿に、私たちはどんなに胸を熱くし、どんなに励まされたことでしょう。

 井野先生のお父さんは井野碩哉という方で戦時中農林大臣をつとめ、そのとき(一九四二年四月)食糧管理法がつくられました。父が食管法を作り、子がその廃止に反対し、あるべき食糧制度を研究する――「なにか宿縁のようなものを感じますね」と言うと感慨深げに頷いておられたのも思い出の一つです。

 食健連の運動には非常に大きな関心を寄せられ、日本の食糧・農業問題を論じられるときには必ず食健連(国民の食糧と健康を守る運動全国連絡会)の運動に触れ、「質の高い運動」が大きく発展することを期待しておられました。研究と農民の運動を重ね合わせておられた数少ない研究者でした。

 まだ農民懇のころ、「東京にも農民組織を」とご自分の地元の八王子で数人の人たちと集まりをもって下さり、それが東京の農民懇・農民連の出発点になりました。

 誠実な、決して偉ぶらない研究者でした。大きな声をあげるのでも派手な行動をするのでもなく、あの大学者が一兵卒のように地味な地域の活動をされている――在野のころの諸葛孔明を思わせる超然とした風格でも慕わしい方でした。

 学問や研究の分野や専門的なことは分かりませんが日本共産党の野呂栄太郎賞を二度も受賞されたことは大変なことだと思います。

 この碩学の業績についてあまり生意気なことは言えませんが、農民運動の側から見てほんとうに偉いと思うことは、一つはいつも先生は農民運動に寄り添って、専門の学問と統一的に、大変温かく見守って下さった研究者だったこと。もう一つは、日本の食糧・農業の危機の根源を決して曖昧にせず、アメリカの戦略と日本の大企業の横暴をしっかりと見据えておられたことだと思います。

 日本農業や食糧問題にふれるとき、当局に遠慮したり、「資料が手に入らなくなるので」と言って、腰が引ける傾向なしとしないなかで、本当に偉い先生でした。古い言い方を借りるなら「聞達を求めず」真理のためには節をまげず、超然としたこの大学者が農民連の顧問であったことは大きな誇りでした。

 暑い畑の仕事をしながら、井野先生への思いが去来する夏です。

(新聞「農民」2001.8.6付)
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2001年8月

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