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岐阜義民兵(PART II)

飢饉の際、嘆願して捕らえられ牢死した中島勘兵衛


 岐阜県益田郡金山町桐洞に町文化財の史跡に指定されている義民・中島助兵衛の立派な碑があります。

 助兵衛は元和二年(一六一六年)、桐洞村に生まれ、名望家で温厚義侠的な人でした。

 当時、桐洞は尾張藩の領地で、元来、農作物の出来はよくありませんでした。

 万治三年(一六六〇年)、代官独断で、年貢米九石の代わりに麦十九石を上納するようにとの御達しがありました。

 重税につぐ重税で、それまでがまんしてきた農民は、一揆を起こそうと村の神社に集まりました。その時、助兵衛は、はやる村人に「もし一揆で代官所へ押し掛ければ、武士に殺されたり、大変なことになる」と説得。

 助兵衛は単身で江戸におもむき、尾張藩に忍び込み運よく廊下を通る尾張藩主の徳川光友に減税の嘆願書を直訴しました。その結果、年貢は減免されましたが、助兵衛は越訴の大罪で捕らえられ、寛文六年(一六六六年)七月末に五十二歳で牢死しました。

 当時、桐洞は大罪者は墓もつくれず、葬式も出来ない時代でしたが、農民たちは山深い所に墓石を建てていました。明治二十八年、当時の岐阜県知事が助兵衛の人徳をたたえ、漢詩の碑文を田中にある神社に建立。

 一年ほど前、農民有志は、山の中の墓碑と碑文を一カ所に集め、後々までも義民・助兵衛の徳をたたえようと、橋のたもとに立派な碑を完成させました。義民・助兵衛の話は、小学校の副読本にも記述されています。

(岐阜県連 岩田 昭/新聞「農民」1999.12.20/27付)
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1999年12月

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