「農民」記事データベース20240122-1585-10

発見
農の現場から

鹿児島県農民連会長 園山一則


農業に従事してわかる
自民党農政の危うさ

 私は、昭和18年(1943年)6月に中国・満州で生まれました。

 満蒙開拓団から引き揚げ当地へ

 昭和16年、太平洋戦争が始まった年に父母が満州の開拓団に応募し、農業に従事したからです。原野を開拓したわけではなく、当時そこで農業をしていた現地の満人(当時はこう称していました)を追い出して農業を始めたわけです。

 現地の土は肥よくで、どの作物もよくできたと聞きました。戦時中で作った作物は街へ売りに行き、よく売れて景気もよかったようです。戦後苦労して引き揚げ、現住所(鹿児島市)に住むようになりました。

 次々と作物変え最後は野菜作り

 はじめは植えてあったみかんやポンカンの栽培から始まりましたが、政府の政策により次々と作物が変わりました。養豚、養鶏、酪農と何でもやりましたが、どれもうまくいかず、最後は野菜作りになりました。私も一家の労働力として小学生のころから働きました。学校を卒業すると同時に新規就農者となりました。農業に従事して70年にもなります。

 野菜もトマト、キュウリ、ほうれん草など多品目を作り、朝市や中央市場に出荷しました。

 景気のよかった頃は何でもよく売れ、「こんなにもうかってよいのだろうか」と引き売りのおばさんが言うほどでした。米も食糧管理法のもとで生産者には所得を保障し、消費者には安く売るという二重米価制になっていました。生産者米価は毎年、農家の運動により引き上げられ活気に満ちていました。

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県農民連女性部主催のバザーで農産物を販売する園山さん

 現在は農業委員 他は自民党員に

 私は29歳から農業委員を務め、今も現役です。当時は、委員は選挙で選出され、農民の議会と言われました。しかし他の委員は自民党員ばかりで何を言っても採用されず、自民党農政を変えることはできませんでした。

 農地の貸し借りができるように法の改正がされたとき、当局はこれで農業は万々歳になると言いましたが、現状を見れば全くのたわ言だったといわなければなりません。

農民連の「提言」を大きく広げよう

 農家が安心して生産に励むには

 今、農業委員会は政府の政策を進めるために農地を持っている農家にアンケートをとり、農地を担い手に集約する地域計画を進めています。

 食料・農業・農村基本法の見直しをすると言いながら、農業の振興策、再生に何の役にも立たない方策ばかりです。24年度の農業予算もわずかしか増額されず、山積する農業課題は何一つ解決できるものではありません。長年苦しめられてきた農家が安心して生産に励むためには、農民連が提言している農政を実施する以外にありません。

 世界の人々が食糧危機に陥っているときに大軍拡に血道をあげるなどもっての外です。日本の農業を守るために農民連を強く大きくしましょう。

(新聞「農民」2024.1.22付)
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2024年1月

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