手記
戦前を振り返る
=子どもと戦争=
千葉県東金市 飯尾 博さん(90)
戦争ごっこに明け暮れた幼年
2021年も夏が終わろうとしている。われわれ1930年生まれの者にとっては忘れられない夏だ。幼少の頃、私は現在の東京都世田谷区に住んでいた。
31年は満州事変、32年に5・15事件、33年国際連盟脱退、36年に2・26事件、37年の小学校入学の年に日中戦争が開始され、39年のノモンハン事件と続くが、この頃は戦争といっても小学生には関係のないことだった。
ただし、当時の遊びというと戦争ごっこが主流で、片や日本軍、片や「シナ」(中国)軍となり、初めから日本軍が勝つという決まりになっていた。その際に歌う歌は、「ここは御国を何百里」という「戦友」や、「天に代りて不義を討つ」という「日本陸軍」などだった。
仲間に文男君というのがいて、「天に代りてフミオ討つ」と聞こえたのか、この歌をいやがっていた。そういう歌は、学校で教えられたのではなく、ラジオが主で、先輩たちが歌っていくのを覚えたのだと思う。「上海便り」とか「兵隊さんよ有難う」「愛馬進軍歌」「暁に祈る」などが記憶に残っている。
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尋常小学校の唱歌集 |
軍歌を歌って旗と提灯行列
38年になると大陸に出かけた兵力は六箇師団(約50万)で、南京を攻略したといって提灯行列や旗行列が行われ、小学生も旗行列に参加させられた。「徐州徐州と人馬は進む」という「麦と兵隊」、「春まだ浅き戦線の」という「梅と兵隊」、さらには「空と兵隊」などの軍歌が生まれたのもこの頃だ。
40年は、皇紀2600年と称して、全国的に行事が行われ、小学生も旗を振り、「金鶏輝く日本の」と奉祝歌を歌わされたが、「金鶏上がって15銭、栄えある光30銭」という歌の方が国民の間でははやったようだ。
41年についに英米軍とたたかいを始め、小学生も退避訓練などをさせられたりした。この年は、周知のごとく勝利の年で、小学生も胸を張っていた。
42年も戦勝に始まったが、出征する人も多くなった。学校でも何人かの先生が兵士としていなくなり、「出征兵士を送る歌」「日の丸行進曲」などを歌って送ることになった。さらに例のガダルカナル戦の悲惨な戦闘が始まったのもこの年だが、国民には知らされていなかった。
学徒出陣で出征 報国隊で勤労
43年、国民学校も卒業して府立八中に入学。体を鍛えるためにと、徒歩通学にした。この年の5月にはアッツ島の玉砕、キスカ島の撤退などがあったが、大本営発表では他の海戦等も含めて「負けた」とは一言も言わなかった。
安倍晋三前首相と同様にウソを続けたのだ。「撃ちてし止まん」というのが流行語であった。神宮外苑での学徒出陣壮行会があったのもこの年だ。
44年になると、不急旅行禁止、特急・寝台・食堂車全廃、歌舞伎場、日劇、帝劇などが続々閉鎖され、逆に空襲は激しくなってきた。生活は苦しくなり、とくに食料不足は深刻で、美味か否かでなく、あるかないかが問題であった。着るものについても同様だった。
中学生は5年生が4月、4年生が6月、3年生が8月に学徒勤労報国隊という名のもとに工場に出勤。11月にはわれわれ2年生も「ああ紅の血は燃ゆる」と送られた。
空襲も激しくなり、中学生は大切な戦力で、ハタキの王様みたいな道具をもって焼夷弾に立ち向かった。毎日のようにサイレンが鳴り、「東部軍管区情報」というラジオとともに敵機襲来。幼児まで文句も言わず待避壕に入るという始末だった。
竹やりで訓練 空襲激化で疎開
国民学校と名が変わった小学校には入り口にわら人形と竹やりが置いてあり、人形には「ニミッツ」「マッカーサー」という米将の名がついていて、竹やりでこれを刺して入った。しかし、気合不足とみなされると、合格するまでやらされるというような学校もあったという。
しかし、小学生は都会にいるべきではないと疎開させられた。行き先が縁故ならまだよいが、集団疎開といって幼い子が親と別れて見も知らぬ遠い土地に行き、幾多の苦労を経験することになる。特攻という戦法が始まったのもこの頃だ。
45年、私は仙台陸軍幼年学校に入校。ここではそれまで不自由していた衣類をはじめ、必要なものを支給され、一般とは違った特権的生活に終始したが、米機の銃撃を避ける一方の生活を続けたのであった。
(新聞「農民」2021.9.13付)
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