東日本大震災 福島原発事故あの日から10年〈手記〉
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原告となった「生業(なりわい)を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟の高裁判決で勝訴の旗を掲げる樽川さん(右端) |
堆肥を施した畑で、化学肥料を控えめにし、消毒もなしで栽培したキャベツは、直売所でも毎日完売でした。須賀川市の学校給食には父が栽培したキャベツが使われ、父は「こういう安全でうまいものを子ども達に食わせることは、いいぞっ」と言って、誇らしげでした。学校給食の時間には食の教育で呼ばれたこともありました。
当時は、田んぼ4ヘクタール、露地栽培のキュウリ1500株、冬から春にはキャベツを栽培していました。出荷停止のファクスが届いたのは結球野菜でした。野菜に放射能が付着しているということは、大地(土)にも降り注いだということです。
父は1センチの良い土を作るのに100年かかると言っていました。先祖代々受け継いでいくことが大事なのです。それが放射能で汚染された。農業者にとって農地を汚染されるのは、職場を奪われるようなものです。あの時の福島の農家は皆、この先どうやって生業をたてるか、途方に暮れたことでしょう。
さらに3月下旬になって、追い打ちをかけるように「田んぼや畑を耕さないように」との農地の耕転禁止通知が出され、4月15日頃まで農作業ができませんでした。例年より2週間ほど遅れて稲の種まきの準備を始めましたが、放射能も取り除いていないのに耕転禁止が解除され、農家はいっせいに田んぼや畑を耕し始めました。
私は、「ひとたび表土をすきこんでしまったら、今後、地表面の放射能を取り除くこともできなくなるのではなかろうか。これで秋に収穫した作物から放射能が検出されたら、1年間、何のために作業したのかわからないなぁ」と非常に不安に思いながら、作業をしていました。
父はあまり口で教えることはありませんでした。「自分でやって覚えろ」「人がやっているのを見て覚えろ」という性格で、厳しい人でした。「農業は一人前になるのに10年はかかる」とも言われていました。
原発事故からの1年間は、必死でした。父が死んだから、何もできないと思われるのが一番、いやだったから。
野菜は、汚染されていないビニールハウスでも栽培を始め、これが功を奏して、露地ものがない時期にも出荷できるので、収入も上がっています。その中でもトウモロコシは直売所でもお客さんから「おいしいねぇ」「何回も買って食べています」などと言われることも多く、こうした会話から感じられるやりがいが、支えになっています。
やっと父の農業のあり方に近づけたような気がします。「継がせなねげればよがった」――そんなことはありません。継いだことに後悔などあろうはずがありません。
天国のあなたに、そう伝えたいです。
岡山・岡山市 和(ペンネーム) |
[2021年5月]
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