「農民」記事データベース20210412-1452-09

東日本大震災 福島原発事故

あの日から10年

宮城・東松島市 大友昭子さん


被災者への温かい支援忘れない
20日ぶりのお風呂に涙

国は被災者の命とくらしを守れ

 「全国の農民連のみなさんの支援は決して忘れません」――。宮城県東松島市の大友昭子さん(74)は、そう振り返ります。

 大友さんは3カ所目の避難先として東松島市から30人で大崎市の鳴子温泉にある「農民の家」(自炊中心の湯治場)に避難しました。

 「当時は20日間風呂にも入れず、毎食もコンビニの余りのようなご飯で、おにぎりも硬くて食べられないようなものでした。ボロボロの状態で『農民の家』に着いた時、大崎市長と出迎えてくれたのが宮城農民連の鈴木弥弘事務局長(当時『農民の家』の理事)でした」

 着の身着のままで避難した大友さんはお金をもって避難できず、「自炊にもお金がかかるし、どうしよう」と不安を抱えていました。

 「出迎えた鈴木さんは『ここにいる限りひもじい思いはさせない』『後でお米を配るから、まずはお風呂に入って』と言ってくれました。被災者それぞれに個別の部屋を提供してくれ、『被災者にこんなにも温かくしてくれるのか』と胸が詰まって、涙がこぼれました」

 大友さんは避難者の中で支援食料の分配の係になり、鈴木さんと打ち合わせの際、「全国から物資が来るよ」と言われ意味が分かりませんでした。「この時は農民連の全国組織を理解していませんでした。実際に宮崎などから食べたこともないものが届いて、農民連の力を知りました。鈴木さんから話を聞いて、ぜひ仲間に加えてほしいと話しました」

 「農民の家」を出て仮設住宅に移った後も交流は続きました。「地域の仲間が集まる場所が欲しいとお願いしたら、東京土建一般労組板橋支部と農民連のみなさんが、東京から元農民連食品分析センターのプレハブを移築してくださり、本当に助かりました。今でも被災者の交流の場となっています」と感謝します。

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移築が終わったプレハブで。前列左から2人目が大友さん(2013年11月24日)

 「この感謝をどう表すか悩みました。生活が楽なわけではないので、働きで帰そうと、宮城災対連の支援活動に60回、手伝いに行きました。本当に全国からの支援はありがたく、この場を借りてお礼申し上げます」

 物は復興進むも心はまだまだ

 2月13日の地震では東松島市も大きな揺れに襲われました。「出かけていたので慌てて戻ると、家の中はぐちゃぐちゃになっていました。津波警報も出ていたので車で高台に避難しましたが、『故郷だが、もうここには住みたくない』という声も聞こえました。今は毎日、パジャマの上に服を着て寝ています」といまだに心の傷は癒えていません。

 「復興公営住宅や高台移転など、物の復興は進んでいます。原発事故で家に戻れず、海産物も思うように売れない福島の人たちのことを思うと、私たちはまだ恵まれていると思います」

 「しかし、心の復興はまだまだです。医療費の免除は打ち切り、収入が増えれば復興公営住宅には住めなくなります。集落がばらばらに移転したので、隣がどこの人かもわからず、コミュニケーションがなかなか取れません。この上、後期高齢者の窓口負担も倍増されれば、高齢者の孤独死が進みかねません。国は命とくらしを守ると言いますが、全くのウソです」と被災者に寄り添わない復興に怒っています。

(新聞「農民」2021.4.12付)
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2021年4月

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