「農民」記事データベース20210322-1449-09

発見
農の現場から

山形県農民連会長
小林茂樹

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「安全な食糧は日本の大地から」
この名文句を 私の胸の中に

 地元の農業高校(山形県川西町)を卒業と同時に父親のもとで就農してから45年になります。すぐに勧誘を受けて農業青年組織に参加しました。その当時は南陽市内に5つの組織があって、私は梨郷地区の0(ゼロ)の会に加入しました。

 市内全域には、18歳から25歳までの青年100人以上の会員がおり、昭和50年代前半の農業に夢と希望あふれる時代でした。地域の発展、農業の振興という目標をもって活動するという、現在の農民連の運動に通ずるものでした。

農業に、農民連運動に
楽しく生きていきます

 農民連結成の話が進んで 

 その頃は出稼ぎに行く者も少なくなり、冬の集まりのなかで、「川西町の平田啓一さんのもとで税金の自主申告をやっている」との話になり、農連協(市内の協議会)主催で、平田さんを講師に迎え、学習会を開催しました。

 川西町、米沢市、市内の赤湯に200人もの会員がいることを知り、南陽市でも農民組合をつくろうということになり、昭和55(1980)年に14人で発足しました。

 山形県置賜地区でも組織結成の話が進み、昭和56年には、5市町で置賜農民連を結成することになります。全国では農民懇を経て全国的な組織、農民連が結成されました。私はこの運動に当初から(22歳のときから)関わり、現在まで楽しい年月を重ねてきました。

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東北農団連の農政局交渉。前列左から3人目が小林会長=2019年8月2日

 3人の仲間と平飼い始めて

 まだ市場等が充実していなかった1960年代は、わが家でも米やたばこ等の統制品以外の果物、野菜は、近隣に直売(ふれ売り)をしていました。トラックを買ってからは、私は父と一緒にスイカ売りに行ったものです。代金をもらったり、駄賃の菓子をもらったりした、あの子ども時代のうれしさは今も消えません。

 スイカ売りの際に知り合った女性と結婚して、すぐに採卵鶏を飼い始めました。このあと、私と周りの産直運動も大きく進展しました。

 3人の仲間とともに平飼いを開始して自家配合の餌をつくり、生産した卵は生協で売ることを目指して準備会を組織。生協の商品などもあわせて農家の青年で手分けして市内を配達しました。

 一方では、東都生協に研修生を派遣して事務局を養成しようとお金を出し合って仕送りをしながら運動を続け、数年後、「共立社」生協の傘下となる南陽生協の結成に至りました。

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小林会長。平飼いの鶏たちとともに

 産直が広がって産直センターを

 また、農協のなかに産直組織をつくり、東都生協との産直を開始。スイカが最初の生産物で、これが南陽市の生協産直のさきがけとなりました。

 食糧管理制度のもとでも、置賜農民連で省農薬米(特別栽培米)の生産、産直も広がり、現在の、おきたま産直センターへと発展してきました。

 私の農業も産直が基本です。米約3ヘクタール、ぶどう各種44アール、リンゴ35アール、ラ・フランス10アール、桃5アール、スイカ10アール、採卵鶏230羽の経営です。従業員(正規)1人と、年間で数人を臨時雇用しています。

 原則、毎週金曜日に卵の配達をして、そのお客さんから、ぶどう、リンゴなど果物の常連さん(買い手)が全国に広がっています。米、ぶどう、スイカ、卵の一部は産直センターに出荷していますが、販売の6割程度は直接販売です。

 後継者養成を急がなくては

 米には少し化学肥料を使用しますが、他の作物はすべて有機肥料だけで栽培しています。鶏の飼料には60%は特別栽培米を使用した自家配合です。何とか近い将来国内産比率を80%までにしたいという目標もあります。

 私には娘が3人いますが、急いで後継者を養成する必要に迫られています。「安全な食糧は日本の大地から」。この名文句を胸の中で繰り返しながら日々、農業に、農民運動に楽しく生きていきます。


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岡山・岡山市 和(ペンネーム)

(新聞「農民」2021.3.22付)
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2021年3月

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