3日3晩燃え続けた広島
伝えよう被爆証言
(下)
東京都豊島区 山田玲子さん(86)
悲劇を二度と繰り返さないため話し続ける
昼近くになって、山の方にある母の妹の家に移動しました。道は人とは思えないほどボロボロになって倒れる人やしゃがみ込んでいる人、まだまだ逃げている人であふれ、歩くこともできないほどでした。夜になって父は板に乗せられ、やってきましたが、長姉はその日は帰ってきませんでした。
その夜から三日三晩、広島は燃え続け、空は一面真っ赤に染まっていました。夜明けになると、家族や身内を探す叫び声があちこちから聞こえてきました。
長姉は2日目の夕方、私たちのところに帰ってきました。広島駅のホームで被爆し、背中から首に大やけどをしており、上半身裸で向こうを向いて座ったきり、「痛い、痛い」としくしく泣いていました。
母が農家からキュウリをもらい、薄く切って長姉の首と背中にのせて冷やしていました。そのキュウリが体温と気温で腐って、すごいにおいがして、ハエが寄って背中に止まると、姉がまた痛がるので、私たちが遠くからうちわであおいでハエを追い払いました。姉にも父にもつける薬は何もなく、父は布団の中でうなり通し、姉はしくしく泣くばかりでした。
ひどいやけどで目がどこかもわからない
私と三姉は母に頼まれ、必要な物を取りに家に戻りました。行く途中で立っていた人に、姉の名前を呼ばれ、振り向いたとき、私は初めてやけどをした人の顔を面と向かって近くでみました。どこに目があるのかわからないほど、やけどで崩れていて、よく姉を見つけたと思うような状態でした。怖くて姉と走って逃げ帰りました。あとから「せめて名前だけでも聞いてあげればよかった」と今でも後悔しています。
名前もわからず火葬された人々
8月9日になり、道にあふれていた人を兵隊さんなどいろいろな人が、トラックできれいに片付けていきました。そして私たちの学校から真っ黒い煙が上がって、大変なにおいが立ち込めていました。道にあふれていた人たちが、何の助けもなく、家族とも会えず燃やされたのです。私たちの小学校では2300人を荼毘(だび)に付したと言われていますが、数だけで名前などは一切残っていません。この年の12月までに広島では12万人、長崎では7万人の人たちが亡くなっています。燃やしている様子を見た人の中には、「もう二度と学校に行きたくない」と今でも言っている人もいます。
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校庭に溝を掘って遺体を燃やしました |
イモの収穫で遺骨が出てきた
戦争が終わり、10月に学校が再開しました。当時は食料難が続いていて、6年生の時に校庭にサツマイモの苗を植えました。収穫の日、お昼にサツマイモを食べるのでみんな喜んでイモを掘り始めました。ところがあちこちで悲鳴が上がったのです。イモと一緒に出てきたのは骨です。山の土で上から覆ってはいましたが、燃やされた人の骨がたくさん出てきてみんな悲鳴を上げました。お昼にふかしたサツマイモが出ましたが、私たちはだれ一人、食べることができなかったのです。
柳の木の下敷きになったせいで、私は20歳くらいから前かがみで何かをすると大変痛むようになりました。動けなくなることも何度かありました。
被爆後は、家族や友だちとも原爆のことを話したことがありませんでした。あまりにも苦しいし悲しいので、子どもが生まれた後も、テレビで平和祈念式典を見せて少しだけ話すだけでした。
33歳の時に豊島区の被爆者の会に参加しましたが、37歳まで自分の体験を話すことはしていませんでした。初めて話をしたとき、思い出して途中で泣き出して、何をどう話したのか全く覚えていません。
二度と話さないと思っていたのですが、被爆者の会の活動の中で、悲しくてしかたないのだけれど話をしなくてはならないと変わりました。戦争を知らない世代に何があったのか伝えて、核兵器をなくし、あのようなことを二度と起こさないため、話をしなければならないと思っています。
(おわり)
(新聞「農民」2020.10.5付)
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