「農民」記事データベース20200928-1426-08

集団疎開の直前に被爆

伝えよう被爆証言
(上)

東京都豊島区 山田玲子さん(86)


上空にB29が見え、気づいた時は木の下敷きに

画像  私は爆心地から2・5キロメートルの広島県広島市己斐(こい)町に生まれ、両親と3人の姉と暮らしていました。

 国民学校4年生の終わりごろ(1945年春)には戦況の悪化で、市内の学校で集団疎開が始まっていました。私は8月9日の第2次集団疎開で出発の予定でした。

 当時女学校を卒業したばかりの一番上の姉は、軍需工場に広島駅から毎日通い、女学校の4年生の2番目の姉は、市内から少し離れた軍需工場に当番制で通っていました。すぐ上の姉は女学校1年生で、市内の強制撤去で壊された家の片づけに通っていました。

 次姉は作業休みで命を拾った

 8月6日、父は在郷軍人として、爆心地から700メートルくらいの小学校に、出征前の兵士の訓練のため、3日くらい前から泊まり込んでいました。

 母と次姉は当番がなく在宅。長姉は朝早くからお弁当を持って出かけ、三姉は体調不良で数日前から作業を休んでいました。作業に行こうとした姉を母が「今日は暑いからもう一日だけ休みなさい」と引き留めたので、三姉は命拾いしたのです。姉の友だちも先生も、みんな原爆で亡くなりました。

 学校の校庭でB29を見上げる

 私は集団疎開前の最後の話を聞くために、国民学校の校庭に集合。大変暑くて倒れて木陰に運ばれる人が続出し、休憩になりました。校庭で遊んでいた6年生が急に「B29だ!」と言って空を指さしました。

 当時広島の上空には、時々B29が来ては何もせずに帰っていたので、私たちは安心して、声につられて空を見上げました。すると、ちょうど私たちの上空を真っ青な空の中、B29が銀色に光りながらUターンし、後ろには飛行機雲がUの字を描いていました。「きれいだな」と思った瞬間、何も見えなくなりました。何があったのかもわからず、みんなで防空壕(ごう)へ走り出しました。

 私も走りましたが、背中にものすごい砂が吹き付けてきて、私は転がりました。気が付いたら校庭にあった柳の下敷きになっていたので、慌てて枝をかき分けて、友だちのいる防空壕に逃げ込みました。

 校庭の裏門を出たところにトンネル式の防空壕が掘ってあり、そこに走っていきましたが、すでにいっぱいで入ることができません。私たちが防空壕の外で身を寄せ合っていると、突然、まるで夕立が来るかのように薄暗くなり、雨が降っていきました。そんな長い時間ではなかったと思うのですが、私たちはずぶぬれになり、寒さでさらに体を寄せ合いました。

 男の子が「大変だ。見てごらん」というので、学校の方に振り向くと、こちらに向かってものすごい勢いでいろいろな人が逃げてきていました。それを見てみんなは自分の家を思い出し、クモの子を散らすように走って自分の家に向かいました。

 逃げてくる人をよけながら走って、家に着くと、家の中はがれきの山でした。天井も落ち、窓などのガラス類は全くなくなっていました。その下に母と姉二人がいると思ったので、「お母さん!お母さん!」と大声で泣いていました。私の声を聴いた隣のおじさんが駆けつけて、母たちが避難したことを教えてくれましたが、それでも悲しくて泣きながら待っていると、向こうから母が飛んで帰ってくるのが見え、飛びついて胸の中で泣いていました。

 そのとき近所のおばさんが、父の帰宅を知らせてくれました。がれきを片付けているところに、父が二人の若い兵士に抱えられ、血みどろで帰ってきました。

(つづく)

(新聞「農民」2020.9.28付)
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2020年9月

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