私の戦争体験
奈良県奈良市
阿波角整治(あわかくよしはる)さん(80)
大阪大空襲で危機一髪
あたり一面火の海
私は1945年(昭和20年)3月13日の夜半から14日にかけての第1次大阪大空襲で、危機一髪で5歳の命を落とすところでした。
家は今、大阪ドーム球場がある大阪市大正区にありました。空襲の1カ月ほど前に建物疎開の対象となり、兵庫県稲美町にある母の叔父の家に引っ越す準備中の空襲でした。
その頃は毎晩のように空襲の警報が鳴っていましたので、その晩も脱いだ服を枕元にきちんとたたんでいたと思います。今考えてみると、5歳の幼児ながら、大変な世の中であることを痛感していたと思います。
防空壕の選択で命を拾うことに
空襲警報が鳴るとすぐに、家の前に掘られていた二つの防空壕(ごう)のうちの一つに母と5年生の姉、生後7カ月の弟と入りました。父は警防団で出動していました。なぜか10歳上と2歳上の兄は近所の家に行っていました。
もし、もう一方の防空壕に入っていたら、おそらく死んでいたと思います。そこに入っていた仲良しの女の子などが生き埋めで死んだことを後で知りました。
防空壕でどれほど過ぎたのでしょうか、父の「防空壕から出ろ」という声が聞こえました。今でもその声を覚えています。防空壕から出るときに片方の靴が脱げ、もう片方もすぐに脱げ、はだしで姉に手を引かれ火の海を走りました。広場へ逃げようとするのですが、どの路地も火の海で行く手を阻まれ、ここでももう少しで命を落とすところでした。
何とか広場にたどり着くことができました。姉の手を放していたら、おそらく死んでいたことでしょう。母親のねんねこ(はんてん)に背負われていた弟は、その底までずり落ちていました。弟ももう少しで母親の背中から落ちているところでした。
一面の火の海を今も覚えている
広場から自分たちの家も含め、あたり一面が燃え盛っている様子を呆然と眺めていたことを75年が過ぎた今でも覚えています。
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空襲で焼け野原になった大阪市内(淀川区ホームページから) |
自宅は全焼。引っ越し準備で庭に山積みだった家財道具も燃えて灰になりました。大阪駅まで歩いて省線電車に乗りました。上甲子園の父の知り合いの家に2泊させてもらい、稲美町に向かいました。行く途中の三ノ宮では米軍機による機銃掃射を受けましたが、母の叔父の家にたどり着き、6畳の部屋を借りて過ごしました。
戦争に学ばない政治では
若者が再び犠牲に
なぜ戦争したかずっと疑問持つ
戦後、私が小学校を卒業するとすぐに父は造船所に行き、半世紀にわたって旋盤工として勤務しました。5人兄弟が仲良く暮らすことができたのはうれしいことでしたが、父がこれだけ働いても貧乏なことは、なぜ戦争をしたのかと合わせて小さいころから疑問でした。
私は昨年、脳梗塞(こうそく)になり、体に不自由が残りましたが、安倍政権のような政治のままでは死ねません。悲惨な戦争に学ぼうとしない政治が続けば、これからの若い人たちも、私と同じ目にあわされてしまうでしょう。侵略戦争にどういう態度をとったのか、若い人たちにはよく知ってもらって、行動をしてほしいと思います。
(新聞「農民」2020.9.14付)
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