私の戦争体験
東京都小金井市在住の「農民」読者
朝倉篤郎さん(92)
(上)
軍国少年だった私 ドーリットル爆撃を目撃
戦闘機乗りにあこがれ海軍の予科練に志願
私は1928年に東京都豊島区で生まれました。当時は各大学に将校が配属されることがはじまり、早稲田大学に通っていた兄は軍人配属の反対運動を行っていました。45年にドイツが負けポーランドが解放されたとき、「ピアニストが大統領になるポーランドはすごい国だ」と言った兄に、思わず「非国民だ」と言ってしまったように、私はいわゆる軍国少年でした。
旧制中学2年の時、帰宅中に初の本土空襲となった「ドーリットル爆撃」を目撃しました。早稲田大学の大隈講堂の上を黒色の双発機B25が飛んでいったことを覚えています。
中学3年の年に学徒動員が始まりました。私たちのクラスは当初、亀戸(東京都江東区)にある日本ロール製造に派遣されました。住み込みで働いていたのですが、「待遇が悪い」とストライキ。結局、私たちは日本ロールの工場から引き揚げられ、少し後に国鉄恵比寿貨物駅に動員されました。恵比寿には海軍の技術研究所向けの貨物が来ていましたが、その中には一斗缶に入ったハチミツが含まれていました。しばしば荷さばきの職員から「あ、しまった!」と大声が出ました。荷さばき用の手かぎを「あやまって」ハチミツ入りの缶にぶつけてしまい、穴が開いたというのです。「もったいない」といいながら、みんなで弁当箱にハチミツを詰めて持って帰りました。こんなことで、当時の私たちはうさばらしをしていたのです。
土浦空襲で爆弾の雨の中、逃げる
3月10日の東京大空襲の直後、私は「海軍飛行予科練習生(予科練)」として茨城県の土浦海軍航空隊に入隊しました。別に「お国のために」と意気込んだわけではありません。有名なパイロットたちのように活躍したいという、単純な憧れのような気持ちでの志願でした。
入隊しても当然すぐに飛行機に乗れるわけもなく、基礎訓練の日々でした。一番大変だったのはカッター(短艇)をこぐ訓練でした。腕よりも太いオールをこぐときに、硬い木のいすが尾てい骨に当たり、痛くてたまりません。痛そうな顔をすると、体罰が待っていました。ハンモックのフックに指だけでぶら下がり、「特攻精神注入棒」で背中や尻をたたかれます。フックから落ちると回数が追加されました。
入隊から3カ月後の6月10日は、霞ケ浦上空は抜けるような青空でした。この日は日曜日で、私たち練習生以外の、特攻要員となった人たちは外出や家族との面会が許可され、明るいざわめきがありました。
8時少し前に突然空襲警報のサイレンとともに「空襲、総員退避」の声が響きました。同時に重く響く爆発音が聞こえ、私は仲間とともに兵舎を飛び出して、夢中で走りました。練兵場に差し掛かると、ザァーという異様な音が頭上を襲いました。私はとっさに防空壕(ごう)に飛び込みました。同時に激しい爆発音と地鳴りが起りました。爆撃で空に舞い上がった土砂や建物の破片が降り注ぎ、その砂じんで何も見えなくなりました。
しばらくして周りが見えるようになったとき、先ほど一緒に走っていた仲間が、壕の入り口の外に倒れているのが見えました。頭に爆弾の破片が当たり、即死でした。
(次号につづく)
(新聞「農民」2020.8.31付)
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