農民連食品分析センター初代所長・農民連顧問
石黒昌孝さんを偲(しの)んで
農民連食品分析センター所長 八田純人
2020年7月23日、農民連食品分析センターの初代所長で農民連事務局次長・顧問を務めました石黒昌孝さんが逝去されました。享年90(満89歳)でした。
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石黒昌孝さん |
科学データで輸入食品に対抗
農民連の運動の柱の一つである農民連食品分析センターは、亡くなられた石黒さんが生みの親でした。設立以来、独立した立場で日本の食の安全を守る役割を果たしてきたことは、多くの方が知るとおりです。
分析センターの設立当時には、「小さな農民団体が、やせっぽちな装備をそろえて分析施設を作ったところで何ができるんだ」と、そんな声もありました。もしこのとき、石黒さんが、科学によるデータを元に食の安全についての議論を広げていくことの大切さを信じ、運動拠点としての分析センターを設立していなければ、いま、日本の食品衛生の分野は、もっと遅れていたと断言できます。
石黒さんは、前職の税関で検査員を務めていた頃、押し寄せる輸入食品に国の対応が追いつかなくなっていることに懸念を持っていました。
1995年には、日本がWTO(世界貿易機関)に加盟したことによって、食の流通は、さらに自由化、国際化し、より一層の輸入食品が押し寄せてくる激動の時代に入ります。
この流れの中、日本の食を守る砦(とりで)であるはずの厚生労働省検疫所は、機能を維持できるのか、と、強い危機感を持っていました。
石黒さんの危ぐ通り、検疫所の検査率は、目を覆いたくなるペースで低下していきました。また、国際基準へ倣(なら)うという看板が掲げられ、基準値緩和が推し進められ、検査も簡略化していきました。「これからの時代、輸入食品が食の安全性を脅かすようになる」、石黒さんはそう確信したそうです。
そして、実際に、多くの方が記憶しているように、90年代から現在に至るまで、日本で起きた食関連の事故、問題の多くは輸入食品に関連したものばかりでした。
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検査する石黒さん(右)と八田さん |
食の安全を求める運動を牽引
当時の分析センターは、限られた検査装備ではありましたが、学校給食パンがポストハーベスト(収穫後散布)農薬に汚染されていること、海外で認証を受けた有機農産物から農薬が検出されること、輸入レモンや野菜は、ビタミンCが劣ることなどを明らかにしていきました。
98年には、国が表示不要として流通をはじめた遺伝子組み換え作物に、いち早く検査機をそろえ、子どものスナック菓子から遺伝子組み換えトウモロコシを検出した調査は、表示義務化への運動を牽引(けんいん)しました。
特に2000年初め頃、中国産冷凍ほうれん草から残留農薬違反に相当する商品を多数発見し、その問題を追及した調査は、実態への対応を先送りし続けていた厚生労働省に、180度の方向転換をさせるきっかけになりました。
この冷凍ほうれん草事件は、分析センターの歴史の中では非常に大きな業績として知られていますが、石黒さんと過ごした調査業務の中には、もっと忘れられない調査があります。それは、とある弁当の調査です。ある日の夕方、石黒さんが、両手にたくさんの弁当をぶら下げて施設に現れました。「お、石黒さん、差し入れか。ありがたい」、そう思っていた私の鼻先に、石黒さんはピンセットを差し出し、言いました。「じゃあ、やろうか」
その弁当の正体は、JR東日本の関連会社が、新幹線のホームで販売をはじめたアメリカ産米を使用した弁当でした。「どう見ても肉類の比率が申告されている関税区分にあっていない。脱税に見える。そんなズルは許されない」と。電子天びんの前に二人座り、ピンセットで一つ一つ、そぼろなどを分けながら、原材料比率を割り出しました。結果、見立ての通り、関税法違反であることが判明します。この調査がきっかけで、業者は、追加徴税を命じられることになりました。
いつもあふれんばかりの笑顔に、分厚く大きな手で握手をする石黒さん。取り組んできた調査は、経験に基づく直感がありましたが、なによりも、あのにこやかな瞳の奥に、確かに秘められた、食を科学の力で守りたいという情熱があってのものでした。
今、世界の食は、ゲノム編集食品などをはじめとした新技術や食の独占などを狙った新たな時代への潮流が勢いを増そうとしています。農民連食品分析センターは、産みの親を失いましたが、私たちはその想(おも)いを受け継ぎ、まい進していきます。石黒さん、ご苦労様でした。どうぞ安らかにお休みください。
(新聞「農民」2020.8.24付)
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