「農民」記事データベース20190916-1376-11

原水爆禁止世界大会での
被爆者の証言から

長崎原爆被災者協議会
副会長 横山照子さん


原爆はあの日から後も今も
これからも私達を苦しめます

画像  1945年の7月には長崎も空襲が激しくなり、私と二人の姉は祖父母と田舎に疎開して、家には両親と1歳4カ月の妹が残りました。父は爆心地から1キロの学校で被爆し、校舎から校庭を越えて崖下まで飛ばされました。

 母は4キロ離れた自宅の庭で、目もくらむような閃(せん)光を目にし、とっさに妹の上に覆いかぶさりました。あたり一面真っ暗になり、金砂のようなものが降ってきたそうです。

 赤い火を吹く電柱

 父を探しに行きますが電柱などが赤い火を噴いて、とても父のいる所まで行けません。再会できたのは4日目の防空壕(ごう)でした。両目とも紫色に腫(は)れ上がり、顔からは血が吹き出て、身体全体が焼け太って洋服には血のりがべったりとくっついて、この世の人とは到底思えない有様でした。15日の終戦まで母と妹は父と一緒に防空壕で過ごしました。防空壕は上からぽたぽた雫が落ち、下はむしろを敷いただけでした。その下は負傷者の吐瀉(しゃ)物や汚物やウジ虫でぐちゃぐちゃ、むしろの上までしみ通り、とても妹を下に寝かせられませんでした。

 父は右目の失明だけで命はとりとめました。働けるようになっても会社に行けず玄関に腰を落としている苦しい父の姿を私達家族は何度も見ていました。原爆ぶらぶら病だったのです。その後も吹き飛ばされた時の腰の骨の後遺症や肝臓病、そして甲状腺で首が倍に腫れ、入退院を繰り返していました。

 リンパ腺腫れ切開

 妹は9月に入ってリンパ腺が腫れ切開しました。しかしだんだん声がかすれて、とうとう5歳の時、喉の手術をしました。妹の声は小さなかすれ声しか出なくなりました。それからは入退院の繰り返し3年遅れて中学校に入学しました。1年生の一学期しか登校できず、44歳で亡くなるまで病院生活が続きました。亡くなる前は両目とも失明しました。戦争さえなかったら、原爆さえ落とされなかったら、妹の人生は素晴らしい道があったはずです。私は妹のことを思い出すと、切なくて悔しくて戦争と原爆への怒りが込み上げてきます。

 長崎は死の街に

 私は原爆投下後の9日後、疎開先から祖母に連れられて長崎に戻りました。死の街に立ち入ったようでした。

 被爆3年後に生まれた末妹は、小学校入学の頃、被爆者を死においやっていた紫斑病を発症。幸いに命は助かりましたが、被爆後生まれた妹にまで、原爆の爪あとは押し寄せてきたのです。

 わが家ではいつも誰かが入院していました。いつも母が看病していました。その母は72年に64歳で胃がんで亡くなり、3年後には父も肺がんで亡くなりました。疎開先から長崎に戻った上の姉も白血病になり、闘病生活を送っています。その姉を看病している娘が、先月2度目のがんの手術をしました。下の姉は、色々ながんにかかり、5年前胆管がんで亡くなりました。

 原爆さえ落とされなかったら、私の家族は健康で楽しく暮らせたと思います。毎日が原爆の病気と不安がつきまとっていました。原爆はあの日ばかりでなく、その後もそして今もこれからも被爆者を苦しめ続けます。

(新聞「農民」2019.9.16付)
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2019年9月

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