日本の牧畜、酪農業の嚆矢(こうし)幕末から明治にかけて生きた
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広沢安任 |
安任の出身は福島・会津、元々は会津藩に仕える下級武士でした。会津藩は、幕府と薩長とのたたかいの中で幕府方の中心となって戊辰戦争をたたかいます。
そのため、明治維新後の新政府に弾劾されて旧会津領は没収、下北半島に新たに斗南藩が作られ、会津の人々が多く移住します。しかし当時のその地域は、冷涼な気候からほとんど米もとれず、飢饉(ききん)が頻発していました。斗南藩の開墾を志した人々の生活は、飢餓による悲惨なものだったということです。
明治政府によって廃藩置県が行われたとき、斗南藩の中枢にいて藩政を取り仕切っていた安任は、弘前、黒石、斗南、七戸、八戸の5県を合併させることを画策し、奔走します。小さな県では立ち行かないほどに生活が厳しかったためです。そして、これが青森県になります。
さらに安任は、困窮する元会津藩士たちの生活を救うべく、現在の三沢市近辺に、日本初の洋式牧場「開牧社」を作ります。これは、岩手県の小岩井農場に先立つこと18年も前です。今でこそ北海道や北東北では牧畜や酪農が盛んに行われていますが、明治時代以前までは農業に向かない原野があちこちに広がっていました。
一方で横浜や東京には、たくさんの外国人が政府に招かれて暮らしており、それまでの日本にはなかった牛肉や牛乳に対する要求が高まってきていました。安任の作った牧場は、日本に於ける牧畜、酪農業の嚆矢(こうし)となったのです。
明治9年(1876年)に明治天皇が東北地方に巡行した折、開牧社を視察に訪れています。その際に随行していた時の内務卿、大久保利通は、安任に政府要職への入閣を薦めています。安任には、京都守護職を任ぜられていた会津藩時代に、新撰組を組織していた過去がありました。大久保と安任は幕末の京都で顔見知りだったといいます。
そして、この時安任は「野にあって国家に尽くす」として固辞し、一介の牧夫として北辺の地の開拓に一生を捧げる覚悟であることを告げます。
安任の記した著書『開牧五年紀事』には、福沢諭吉が序文を送り、「思うことは話すことよりたやすく、話すことは書くよりもたやすい。最も難しいのはそれを行うことである」と絶賛します。福沢諭吉が尊ぶのは「実修の精神」、荒蕪(こうぶ)の地で自ら行動を起こした広沢安任を、最大限に評価した言葉です。
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[2019年4月]
農民運動全国連合会(略称:農民連)
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