「農民」記事データベース20181119-1336-09

ふるさと
よもやま話

沖縄県農民連会長
中村康範


私の農民運動の原点―農連市場
基地撤去へ本土と力を合わせて

 集落で乳牛導入
 北海道で学んで

 私は、いま沖縄県南城市で酪農を営んでいます。1960年代当時は玉城村でしたが、61年に私の父が村の集落に本土から農家1戸につきホルスタイン牛1頭を導入し、集落で集団的に酪農業を導入したのが、酪農を始めるきっかけでした。

 当時は、地元のゲンキ乳業が牛乳を引き取って加工する体制ができ、酪農業が沖縄で定着するきっかけになりました。県内でも酪農の先進地になりました。ゲンキ乳業はその後、森永乳業と資本・業務提携し、沖縄森永乳業という名称になりました。

 私も酪農業を継ごうと、1969年に東京に住んでいるいとこのところに行き、70年から北海道に渡りました。札幌から道東地域を約半年間かけて視察し、翌年2月に東京に戻りました。東京で1年間働いたのち、沖縄に戻り、酪農業を始めたのです。

 自由な販売取引
 農家が存続運動

 その際、本土から戻った他の農業青年らとともに、農業青年クラブをつくり、那覇の農連市場にも頻繁に訪れ、そこで販売・取引を行いました。相対売りなど自由で活気のある市場でした。

 ところが70年代半ばに突如、農連市場廃止の動きが起こり、「相対売りはなくすわけにはいかない」と、農家のみなさんが反対運動に立ち上がりました。沖縄の農民組合も運動に加わり、これが私が農民運動に携わるきっかけになりました。

 農連市場はその後も存続し、いまでは「のうれんプラザ」として、市民の台所、農家のよりどころとして、昨年10月に生まれ変わりました。

 沖縄県農民連も、会費の徴収や運動のあり方など、自立した組織として改善するところが多々あります。来年の農民連結成30周年に向けて、県農民連も、会費や役員体制の確立をはじめ、沖縄の農業形態にあわせた組織として、地に足をつけた自立した組織に生まれ変わろうと努力しています。

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市民と農家の憩いの場「のうれんプラザ」(那覇市)

 基地と農林漁業とは相いれない

 沖縄農業にとって米軍基地の存在は深刻な問題です。もともと農地だったところを強制的に取り上げて基地にした経緯からも、基地と農林水産業など第1次産業とは相いれません。自立した農林漁業の確立と地域経済の振興のためにも、基地問題の解決は待ったなしの課題です。

 10月の県知事選挙では、故翁長雄志知事の遺志を継いだ玉城デニーさんが勝利しました。保革の対立を乗り越えて、「オール沖縄」の流れができつつあります。県農民連も統一連の一員として加わり、オスプレイ配備反対、普天間基地の閉鎖・撤去、県内移設を断念することを求める「建白書」実現のために奮闘しています。

 今後も、本土のみなさんの米軍基地反対の運動と連帯して、県農民連も、農業を守り、基地撤去を迫る運動に取り組んでいきます。

(新聞「農民」2018.11.19付)
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2018年11月

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