「農民」記事データベース20180910-1326-05

家族農業
―私はこう考える

農民連元会長 福島県農民連
佐々木健三


 陶淵明の「いざかえりなん」

 6年間の農民連会長の任務を終えた主な理由は、難病のパーキンソン病を発症したことによるものだった。以来10数年余り、幸い症状もそれほど進行せず軽度の作業ができた。

 私の先輩で、昨年亡くなった小林節夫さんは退任の際の心境を陶淵明の「いざかえりなん」という言葉で語られた。それを言うならば、若い頃の青年団活動、PTAや消防団など地域の運動、農民連や農協などの農民運動、これらのそれぞれの役割を常に会長として、つまり、上から目線でものをみるということになってきたことに気付いた。

 そして、その日から、運動の最前線で活動する仲間たちの姿にふれ、一番困難で一番大事な地を這(は)うような活動を目指そうと決意した。

 戦前から戦後の変遷の歴史

 さて、わがふるさとをそういう目で眺めると、実に暗澹(あんたん)たる状況にある。その現状を前にして、立ちすくんでしまうほどである。私はこの現実から出発して、いくつかの行動を起こした。折しも農業のあり方を問う家族農業の10年が始まろうとしており、私の実践の第一歩が始まった。

 一つはわが家の酪農経営と牧場カフェの立ち上げだった。

 現在77歳の私の先祖は、戦前から戦後の大きな変遷の歴史とともにあった。とりわけ農業と農村の変貌は大転換となり、今日まで続いている。昭和34年、地元の農業高校を卒業して、農業の近代化をうたった農業基本法のもと、生後4カ月の仔牛を基に酪農を始めた。あの頃の若者が目指した希望は上手には説明できないが、今日でも私の心に残っている。

 以来、半世紀を超え、心の片隅にある初心を貫いてきたことに感慨深いものを覚える。この間の農業情勢は、ガット・ウルグアイラウンド農業交渉により、貿易の自由化路線をひたすらに突っ走り、日本の農民に塗炭の苦しみを与え、食料自給率38%にまで落ち込んだ。日本農業をつぶす勢力とのたたかいでもあった。

 先にも述べた通り、私の周りでは、後継者不足による耕作放棄地がものすごい勢いで増え、日本農業にとってきわめて深刻な状態が広がっている。

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牧場カフェでの朝市のようす

 放射能被害にもあきらめない

 その中にあって、福島県の農民は、東京電力福島第一原発事故による放射能被害により、再生不能といわれるほどのダメージを受けた。われわれ農民連の歴史もまた農業つぶしに対する果敢な闘争の連続であった。この歴史を受け継いだ福島県農民連は決してあきらめない、たたかってこそ農民の力を発揮し、運動の前進と組織の発展を成し遂げた。

 たたかいのなかで、この震災・原発事故とのたたかいは最も困難なものの一つでもあった。このたたかう組織・農民連の一員として加われたことに誇りをもっている。決してあきらめない、たたかいの展望を失わない、どんな困難があろうとも団結し、必ず乗り越えていくことができることを学んだ。

 よちよち歩きのワサビ生産組合

 原発事故後、仲間6人と地域の先輩農家が40年来栽培してきたワサビの栽培を引き継いだ。参加した6人は、全員退職者で、平均年齢70歳を超す後期高齢者でもある。この取り組みは、この地方の特産物になる可能性があり、地域・仲間づくりに発展するものとして期待して取り組んだ。6人の組合員は、それぞれの分野で特技をもったプロ集団で、一人ひとりの能力を生かすことができれば大きな力になることを知った。

 よちよち歩きのワサビ生産組合だが、地域の発展のために役立つ組織になってほしいと思う。

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ワサビの栽培

 家族農業の中核に農民連が座る

 家族農業については、分析や解説はあまたあるが、その実践例はなかなかでてこない。農業経営を行うにあたって、わが家だけで解決することは難しく、地域のみんなで知恵を出し合い、協力・共同していくことがやはり必要である。

 その中核に農民連が座る。たたかいの経験を生かし、地域の中から展望をつくり出し、事業活動を取り入れ、経済的基盤の確保をめざす。これこそ、地域での集落営農の核心部分であり、運動の成否を占う。この取り組みを新しい形での家族農業に作り上げていきたい。その条件は、私たちの周りに数多く存在している。ここに農民連の役割と責任があると実感している。

(新聞「農民」2018.9.10付)
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2018年9月

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