原水爆禁止世界大会
共同の力で被爆国日本に
ふさわしい政府つくろう
核兵器禁止条約への署名・批准が世界で進み、朝鮮半島でも非核化へ向けた話し合いが進む中、原水爆禁止2018年世界大会・広島が8月4〜6日に開催されました。
松井一実広島市長は大会へのメッセージで「(被爆者の悲惨な体験は)核兵器が存在し、使用をほのめかす為政者がいる限り、いつ何時誰が遭遇してもおかしくない」と指摘。キューバのクラウディオ・モンソン駐日2等書記官が「『核抑止力』は核の永久保有を促進してしまう」と訴えました。
また青年分科会(5日)に参加した30代の男性は「以前は核抑止力論を真に受けていたが、被爆者の話を聞いて、核はなくしたほうが良いと思った」と語りました。
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青年分科会では、被爆体験記の現地に出向き体験記の朗読をする追体験企画にも取り組みました |
広島決議は、市民と野党の共同で、被爆国にふさわしい政府をつくることを呼びかけました。
核兵器禁止条約批准一日も早く
被爆証言 山田玲子さん(84)
(東京・豊島区在住)
わたしは11歳のとき、広島の爆心地から2・5キロ離れた己斐国民学校で被爆をしました。
突然「B29だ!」という男の子の声で空を見上げると、アメリカの爆撃機B29がちょうどUターンしてその後ろに白い雲が弧を描きました。
「きれい」と思ったとたん白い光が一瞬走って何も見えなくなりました。防空壕(ごう)に急いで向かっていた私の背中にものすごい熱い砂が降ってきて、私は転がりました。
防空壕の中はいっぱいで入ることもできず、夕立のような雨でぬれて、なぜか無性に寒くて震えました。
午前11時頃になると被爆してけがややけどをした人たちがたくさん逃げてきましたが、およそ人の姿ではありませんでした。その人たちはなにも助けてもらえず家族に会えないままに7、8日のうちに延々と重なり合って、亡くなりました。
「泣こうにも涙の出る心もなく、わめこうにも声の出る口もない。もがこうにも手指の皮膚も無いあなたたち」。原爆詩人の峠三吉が読んだままの光景でした。
校庭では9日から、亡くなった人がごみのように集められ、名前も確かめられず、溝の中で燃やされました。2300人行方不明という記録だけが残りました。
私の父は爆心地から1キロの小学校の校舎で被爆し、体中にガラスの破片を浴びて血みどろで、2人の兵隊さんに助けられて昼ごろ帰ってきました。18歳の一番上の姉は広島駅で被爆し首から背中に大やけどして2日目の夕方、帰ってきました。
2人につける薬は何もなく、父はうめくばかり。姉は上半身裸で「痛い、痛い」と毎日泣いていました。
第1回世界大会の翌年56年に被爆者は日本原水爆被害者団体協議会を設立し、それまでの沈黙を破って、このようなことが再び繰り返されないように、原爆を許すまじ、戦争も核もない、平和な世界をと、ずっと活動を続けているのです。
昨年、採択された核兵器禁止条約が、1日も早く実効性のあるものになりますように今は祈るだけです。
(新聞「農民」2018.8.27付)
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