「農民」記事データベース20180813-1323-07

ふるさと
よもやま話

鹿児島県農民連会長
園山一則


今、自由化交渉に抗して
立ち上がるとき

 開拓団で中国に土地奪い農業を

 私は昭和18年、中国の満州・奉天(現遼寧省瀋陽)に生まれました。父は9人兄妹の六男として生まれたため、故郷を出て働きに行かざるをえず、熊本の松田農場で研修し、昭和16年に満州に渡りました。太平洋戦争の真っただ中でした。開拓団として現地の中国人を追い出し農業を始めました。

 米や野菜を作り、街へ売りにいきました。何でもよくでき、できた作物もよく売れたと母が語っていました。戦後苦労して現在の鹿児島市唐湊(とそ)に居を得ました。引き揚げのとき、3歳の私は迷子になったそうで、もう少しで孤児となり、テレビで訴える羽目になったかもしれないと聞いたものです。

 他国を侵略し、中国の人をひどい目にあわせたものの当然の報いだと思い、私の人生の糧としております。引き揚げ後、現在地でミカンやポンカンの栽培をしました。戦後の食糧難の時代、農産物の不足で八百屋さんが自宅まで買い出しに来てくれるときもありました。私も小学生の頃から手伝いに駆り出されました。収穫はもちろん、農薬散布、園地の草刈りなど何でもやりました。

 その後、オレンジやジュース等の輸入自由化でミカン栽培もやめざるをえなくなり、酪農、養豚、養鶏と次々に作目を変えましたが、何もうまくいかず、最終的に私が卒業して後継した頃には、野菜作りに専念しておりました。父が他界するまで一緒にほうれん草等の葉物、トマト、キュウリなどの果菜類を中心に経営しました。中央市場に連日出荷し、市場から家に着いたら真っ暗という日も続きました。また、朝4時に起き、朝市に売りに行くこともありました。高度成長期には、こんなにもうけていいものだろうかと言う農家もいました。

 農業一筋50年に自民農政ひどい

 今は、弟一家と有機農業で産直や物産館への出荷をやっています。300軒を超す消費者との産直、自家野菜を使った小さな食堂もやっていますが、経営状況は大変です。私も学校を卒業以来、農業一筋50年を超えました。この間、農業委員を42年続けておりますが、自民党農政は本当にひどいものです。

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県農民連女性部主催のバザーで農産物を販売する園山さん

 現在の自由化交渉は、日本の農業を壊滅させ、多国籍企業や財界の利益を第一にするものです。

 鹿児島県は全国でも有数の農業県で全国4位の産出額を誇っていますが、農家の実態はひどいものです。県民の所得もいつも下から3、4番目です。もう政治を根本から変革する以外に手はありません。安倍政権を倒すために、市民と野党が強く結束しなければなりません。そのためにも農民連が強く大きくならなければなりません。がんばりましょう。

(新聞「農民」2018.8.13付)
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2018年8月

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