ふるさと
よもやま話
大阪農民連会長
田中 豊
大阪版都市と農村のいい関係
「水都」大阪の原型に
「大阪に橋ないで」「なに言うてんねん、天満橋・天神橋・難波橋・淀屋橋……浪速の八百八橋(はっぴゃくやばし)言うて、橋ばっかしやないか?」
「そらみな橋(ばし)や、橋(はし)はない!」
これは、喜六と清八が掛け合いをする落語の一節ですが、大阪市域は、事程左様に縦横無尽に堀川が流れています。
もともと、太閤はん(豊臣秀吉)が、大阪城の築城のときに城の総構(外堀)としての東横堀川を掘り、その西側(大阪湾方向)に広大な城下町を造成するのと並行して、商人たちが競って数多くの堀川の開削を盛んに行い、「天下の台所」を支える物流の動脈としたのが「水都大阪」の原型です。
毎年7月24日(宵宮)、25日(本宮)に行われる、日本の三大祭りの一つ「天神祭」では、大川(旧淀川)に多くの船が行き交う「船渡御(ふなとぎょ)」が行われ、奉納花火が揚がります。水面に映える篝火(かがりび)や提灯(ちょうちん)明かり、花火などの華麗な姿から火と水の祭典とも呼ばれ、昨年は約130万人の人出でにぎわいました。
「商都」大阪と近郷農村
大阪平野は「河内湖」という大阪湾とつながった内海でした。淀川や大和川が運ぶ土砂が堆積し陸地化しましたが、多くは低湿地の状態でした。ここを堀川の開削から出た土砂で埋め立て、新田開発が進み近郷農村が広がりました。
大阪が、北前船や菱垣廻船での全国の物流拠点として発展していた頃、北前船で北海道からもたらされる鰊(にしん)の干鰯(ほしか)が良質の肥料として利用され、近郷の河内で綿花栽培が広がり、当時としては高級品である「河内木綿」の生産が盛んとなりました。また明治初年に始まった泉州玉ねぎの栽培でも、この干鰯を大量に使用し、おいしい玉ねぎの名を上げたことを、古老の組合員の自慢話で聞いたことがあります。
現代感覚では少し尾籠(びろう)な話になるかもしれませんが、「商都」大阪から排出される糞尿(ふんにょう)が、かつては近郷農村で肥料として利用されていました。
「夜中に起きて、肥(こえ)たんご積んだ車を牛に引かせ出掛け、商家を回って集めるねん。換わりに野菜や花を置いてくる」
これも40数年前に古老の組合員から聞いた話で、糞尿は有料だったんですね。
Win・Winの関係づくり
かなり古い話をしましたが、都市農業の振興が喧伝(けんでん)される昨今、都市と農業そして市民と農民のいい関係づくり、共にWin(ウィン)・Win(ウィン)の関係づくり、様々な取り組みが進められておりますが、まだまだ発展途上、頭と体を大いに使いましょう。
(新聞「農民」2018.5.28付)
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