ふるさと
よもやま話
三重県農民連会長
吉川重彦
生産のため生きるための
農民の懸命な奮闘のあと
三重には忍者で有名な伊賀盆地もあるが、伊勢湾沿いの伊勢の地は海の幸、山の幸も豊かな温暖な地。しかも、伊勢神宮が鎮座し、“おかげまいり”で全国各地から人々が押し寄せる。争わず待っていれば向こうからもたらされるので、三重の人は優しいが進取の気概にかけ、“伊勢乞食(こじき)”と言われる。農産物は、「何でもあるが何もない」。
しかし、この伊勢の地にも農民たちの生産のため、生きるための懸命の奮闘が行われてきた。
〈マンボ〉
灌漑用水に利用 日本のカナート
世界の砂漠地帯のオアシスの緑は、遠く雪のある山地から地下に横井戸を掘り、地下水を集め導水する施設(カナート)による。鈴鹿山脈の東麓の扇状地には、日本のカナートと呼ばれるマンボがあり、水の少ない扇状地の水田の灌漑(かんがい)用水に利用された。マンボは「間歩」と書き、坑道の意味。
マンボは数十メートルおきに縦穴を掘り(日穴と呼ぶ)、その両側から横穴を掘り進み、穴を連結させる。穴はひざをついて短い柄のつるはしで掘り進む。出てきた土砂は日穴のところで地上に出す。この地域の表層は黒ボク土、その下に粘質土、その下層は砂礫(されき)層となっている。マンボはその砂礫層を掘り進む。
マンボの幅は80センチメートル程度、高さは1〜1・1メートル、地下2〜10メートルに位置する。距離は長いもので1キロメートルを超え、多くは数百メートル。四日市、鈴鹿など北勢地域に100本ほどがある。にじみ出る水滴を地下で集めて水田の灌漑に利用した。これは上位にある水田から地下に漏れた水を再利用していたことにもなる。
マンボのある集落は毎冬、水が枯れると出合いで底にたまった土砂を取り除く“マンボ浚(さら)え”を行ってきた。しかし、最近はダムによる用水施設の完備や何より、農業の衰退で廃棄されているマンボも多い。
〈乾田直播〉
いまでは緑茶と花木の主産地に
水稲の乾田直播栽培は、最も省力的な水稲栽培技術とされるが、雑草管理など今になっても確立した技術になっていない。ところが明治後期から大正時代、三重県は全国2位の乾田直播栽培が普及した県であった。そして、その中心地域が鈴鹿山脈東麓扇状地である。普及の理由は、乾田直播栽培で灌漑用水の需要時期のピークをずらせられるからという。
米作りに対する当時の農民の執念を感じる。鈴鹿山脈の東麓のこの地は現在、何もない三重の農業の中で全国五指に入る緑茶と花木(三重サツキ)の主産地になっている。
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鈴鹿山脈扇状地に広がる茶園(鈴鹿市) |
〈伊勢暴動〉
明治期に税率を減額させた竹槍
1876年(明治9年)12月、松阪市魚見に始まった農民の一揆は、あっという間に三重の全域、そして隣県にも広まった。明治政府が地租改正条例を発布し、年貢の現物納から、米の豊凶にかかわらず税率を地価の3%の金納としたことに対する農民の不満が爆発し、取り立ての延期や地価評価のやり直しを求めた。政府は税率を3%から2・5%に減額する。農民の勝利。「竹槍でドンと突き出す二分五厘」の歌ができた。
(新聞「農民」2018.3.26付)
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