ふるさと
よもやま話
山形県農民連会長
小林茂樹
山形の農業と生命を支える
“母なる松川”
この地で15代農業を生計に
山形県の地図は左を向いた人の顔の形。あごの位置にあたる吾妻山を源流として、額の位置、酒田港で日本海に注ぐ最上川。その上流、旧上杉藩領の松川沿いに越後の国から移住した先祖から15世代にわたりこの地で農業を生計にして生活してきました。
家のちょうど前を鉄道マニアには有名なローカル鉄道フラワー長井線が走り、朝晩には多くの学生たちを赤湯から白鷹の間で運んでいます。
沿線の宮内駅で下車すれば徒歩でも熊野神社に参拝することができます。“NHKゆく年くる年”で放映されましたが、1200年の歴史をもつ由緒ある神社で“三羽のうさぎ”で若い人たちにも話題になっています。
さて、線路のすぐ先を松川が南から北に向かって昔から流れ続けています。時に甚大な災害をもたらしてきましたが、飲料水、工業用水、農業用水として山形県の農業振興と人々の生命を支えている“母なる川”です。
特産物も文化も運んだ帆掛舟
その川に明治20年に橋が架けられ、この道は白石と新潟を結ぶ重要な動脈となっています。現在は3代目の立派な橋です。その橋のたもとに“舟場”という屋号のお宅(高橋さん)があり、橋ができる以前は船着き場の仕事に携わっておられたお宅です。
お話をうかがってみると京都から伝来したものと思われる美しい絵本がある、とのことで見せていただきました。確かに都の雰囲気を感じました。向こう岸への渡し舟などとして利用されたと同時に元禄時代には、北前船で米沢から各地の船着き場を経由しながら酒田港へ。そして、京の都から酒田を経て当地へと様々な物資が行き来していました。
米や紅花、青荢、絹織物等が帆掛舟で川を下り、そして日本各地からその土地の文化も届いたのです。決して行くことが叶わない都の品々を手にして、目前にして華やいだ文化の香りに人々は憧れの思いを馳(は)せたことでしょう。
物流は舟運から鉄道へ、そしてトラックへと変わり、舟の姿は消えましたが、その昔に思いを巡らすことも楽しいものです。
友好と敬愛の幸来橋架けたい
“舟場”に架かる橋には公募により“幸来橋”と名付けられたのです。160メートルの立派な橋は向かい岸の村々とを結び、人々が“新たな時代に幸せが来る”ことを願い希望を込めて名付けた橋の名です。
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幸来橋の前に立つ小林さん |
中国が一帯一路政策でヨーロッパ諸国との結び付きを深めて、その路(みち)は太くなりつつあります。アメリカ一辺倒の外交で日本に“幸福が来る”ことはありません。
全世界の国々との友好と敬愛の心を込めた“幸来橋”を数多く架けていかなければならない!!と特に強く思うこの頃です。
(新聞「農民」2018.2.19付)
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