私の戦争体験
広島県農民連顧問
杉本 隆之さん(89)
=北広島町在住=
正しい歴史の反省にこそ
日本の未来はある
戦前の私は軍国少年でした。国民学校高等科(中野国民学校・島根県邑南町)を卒業した1943年の春、14歳のとき、勇んで満蒙開拓青少年義勇軍に志願しました。
まず、茨城県の内原訓練所に入って、3カ月の訓練を受けました。その後、満州(現中国東北部)にわたり、ソ連のウラジオストク近くの勃利(ボツリ)の訓練所を経て、45年3月、ソ連と満州との国境近くの東安適正訓練所に移動しました。
8月9日、ソ連の興凱(ハンカ)湖艦隊の艦砲射撃ではじめてソ連との開戦を知りました。従って、着の身着のままの夜間のみの山中の逃避行が始まり、東安の町をめざしました。
日本に帰れると喜び乗り込んだ
10日の朝、東安の町に入ったときに、乗客や弾薬、食料を載せた列車が爆破される事件がありました(東安駅爆破事件)。私もドラム缶が空中へ30〜40メートルも上がるのを目撃しました。若い人やお年寄りの遺体、あごの吹き飛んだ人、腕のない人など悲惨な同胞の姿がありました。
「お兄ちゃん、連れてってくれ、日本へ連れて帰ってくれ、頼む」と抱きつかれたり、足を引っ張られたりしたことが今でも脳裏から消えません。私たちも命からがら避難している途中ですからどうにもなりません。
乗客のなかには、開拓団の人もいれば、技術者も一般の人もいました。何でもこれが最終列車だというので、多くの人が「やれ、これで日本に帰ることができる」と喜び勇んで列車に乗り込んだのはよいけれど、東安の駅を出るか出ないかでの爆破でした。
はじめに日本の軍である関東軍の軍用列車が出発した後、民間人の乗る車両が爆破されて、死傷者がたくさんでたわけです。はじめはソ連軍がやったとばかり思っていましたが、関東軍の仕業らしいということが後にわかりました。
軍隊というのはひどいものだと思います。当時、私は16歳、それまでの軍への印象がガラリと変わりました。関東軍は、同胞を守らない。関東軍の将校連中は、家族を連れて、いの一番に南下しているわけです。
食料もなしに1週間山中歩く
その後、東安を後にし、牡丹江に向かって逃避行が始まりました。食料もないなか、1週間山中を歩きました。
逃避行中は、ソ連軍の飛行機の機銃掃射が上からくるのです。敵に見つかってはいけないと、赤ちゃんが泣いたら、親が赤ちゃんの口を手でふさぐ。飛行機が見えなくなって手をとったら窒息死していたこともありました。
食料がなく、子どもを連れて避難できなくなる。だから親は心を鬼にして、置き去りにする。関東軍が残した乾パンを子どもにあげて、それを食べているうちに逃げる。生きてさえいれば、誰かが拾ってくれるだろう、大きくしてくれるだろうと。それが戦後の残留孤児です。
収容所に伝染病まん延
薬なく何十何百の死者
逃避行の末に、牡丹江で収容所に入り、次にハルビンに移りました。難民収容所には、風邪をひいても病気になっても薬がありませんでした。発疹チフス、疫痢、赤痢がはやり、伝染病がまん延して多くの人が死んでいきました。1日何十人、何百人も。
悲惨な逃避行と抑留生活12年間
死ぬと埋葬が大変です。夏はまだいいのですが、冬になると土地が凍り、深く掘りたくても、つるはしが跳ね返されてどうにもなりませんでした。
そこで遺体を馬車に積んで郊外へ運んでいって投げ捨てるわけです。畑に持っていって投げておいたものは、オオカミがきてきれいにしてくれる。つまりオオカミの餌食です。
牡丹江とハルビンで1年間、収容所生活を送り、その後、北京、武漢などでの12年の抑留生活を経て、やっと日本に帰国できたのは1958年5月でした。
(新聞「農民」2017.9.4付)
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