「農民」記事データベース20170828-1276-06

私の戦争体験

宮崎県農民連元会長
小田 治さん(89)
=宮崎市在住=


一面焼け野原―被爆後の広島
今も忘れられない光景

画像  1941年12月8日、宮崎中学校(旧制)の2年生だった私は、校庭で開かれた朝礼で、真珠湾攻撃でのわが軍の大きな成果を聞いて心が躍ったことを鮮明に思い出します。

 小学校に入って6年間、「ススメ、ススメ、ヘイタイススメ」の国語教育。「キクチコヘイハ、シンデモラッパヲ、ハナシマセンデシタ」の修身教育を受けて育った者にとって、日本がドイツ、イタリアと同盟を結んで米英を攻撃し、大東亜共栄圏の楽園を築くとの理想に燃えて、すべての行動を律してきた思春期だったのです。

 旧制中学校の4・5年生は上級の学校への受験が許され、疑うこともなく私は陸軍士官学校と海軍機関学校(後に海軍兵学校舞鶴分校)の両方を受験し、海軍を選びました。

 持ち帰ったお米家族に喜ばれた

 舞鶴での1年間は忘れようとしても忘れられない日々の訓練でした。特に舞鶴の寒さには閉口しました。雪はほとんど降らない宮崎から出てきて、零度以下の寝室で眠らなければなりません。もちろん当時は、暖房施設などあろうはずがありません。

 また、雪の積もったボートの訓練は、尻から血がでるほどやらされました。いま90歳を迎えるのに週2回の新聞配達をずっとやってこられたのは、この少年時代のイジメがあったからでしょうか。

 45年8月15日、天皇の終戦の言葉を聞いたのが、海軍兵学校舞鶴分校の食堂でした。その年の10月、宮崎へ帰るスシ詰めの列車は、長い間、広島の駅で止まりました。一面の焼け野原は今も忘れられない光景として残っています。宮崎に入ると、田んぼは一面真っ白でした。この年の台風のせいでした。私の背負って帰った、わずかの米が、家族を喜ばせたことが忘れられません。

私の人生を変えた
宮崎農専の学生生活

 『第二貧乏物語』読んで転機に

 放心状態だった私は、「俺の学部に来い」と勧めに来た友人に従って宮崎農専の転校試験を受け、2年の学生生活を送ることになりました。

 この2年間は、私の人生のなかで最も大事な期間だったと思います。まず第1に、今まで受けてきた軍国主義的考え方が180度ひっくり返されたからです。

 聞いたことも、目にしたこともない、民主主義・自由主義・社会主義等々の言葉とともに、ザラ紙に印刷されたいろんな本が店頭に並びました。お金がなかった私は、何時間も本屋の店頭で立ち読みしたのを覚えています。

 このなかで、大阪の大学から帰った先輩から、河上肇の『第二貧乏物語』を借りて読んだことが、大きな衝撃であり、転機となったのでした。

 就職しないで食糧難で農業へ

 卒業してブラブラしている私に警察予備隊(自衛隊の前身)の勧誘と、県からはアメリカへの農業研修への派遣の勧めがありました。いずれも断りました。当時の就職の現状では、公務員になってもメシが食えない時代でした。

 もともと教師の母と、商店の番頭だった父でしたから、田畑がそうあるわけでもなく、やっと飢えをしのぐだけの田んぼでした。

 私が卒業して取り組んだのが、社会主義研究会でした。この仲間の勧めで、今の母ちゃんと一緒に64年間も過ごすこととなったのです。

 生粋の農家の長女だった彼女は、中途半端に育った私と比べて、一段も二段も上で、何かにつけ教わることばかりでした。田畑の少なかったわが家で、開墾を進め、3人の子どもを育てながら土方(日雇い労働)に行って日銭を稼ぎ、税金滞納の交渉、農協との肥料の借り方交渉等と、懸命に家計を支えてきました。今でも元気でメシをたき、野菜を育てています。

 わが家の農業は母ちゃん一手で

 私自身も、地元農協の監事を4期12年間、農業委員にも立候補し、5期15年間務めてきました。そして宮崎市の市議会議員も2期やり遂げました。

 わが家の農業は、母ちゃんの一手販売の状況で、私は農業の仕事を放ったらかして飛び回る日々でした。

 いま私は、地区の水利組合長としてがんばっています。100人の組合員の世話をすることになった理由は、昨年12月、TPP反対の集会での訴えを地元テレビが放映し、その内容が元気でよかったからだそうです。

 2年の任期をやり遂げ、立派に任務を果たしたい。そして農民連の活動にも、微力ながら参加し続けたいと決意しています。

(新聞「農民」2017.8.28付)
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2017年8月

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