長崎の町は真っ赤に燃え
遺体ばかりの惨状に…
長崎被爆を語る
吉原春男さん(87)
核兵器禁止条約に反対する
安倍首相に怒り!
8月7〜9日に長崎市で行われた原水爆禁止世界大会の開催中に、長崎市に住む吉原春男さん(87)から被爆当時の様子を聞きました。
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山の向こうでも顔が熱くなった
当時15歳で、爆心地から12キロほどの北高来郡古賀村(現長崎市)に住んでいました。
朝から田んぼで仕事をしていて、上がろうとしたら、東の諫早(いさはや)市の方から爆撃機がやってきました。ずいぶん大きな爆撃機だと思っていたら、やがて、ピカッ、ドーンと爆発しました。長崎と山を隔てていましたが、それでも顔が熱くなりました。
血を流しながら歩いている人も
消防団から招集があり、学校に集まって、長崎の救援に行くことになりました。歩いていく途中ではなぜか片方だけの草履やバケツを持って逃げてくる人、血を流しながら歩いてくる人ともすれ違いました。重症の人が諫早に向かってひっきりなしに歩いてきて「水、水」という人も大勢来ました。ひどいやけどを負っていることがはっきりとわかり、何と声をかけたらいいのかわかりませんでした。
山越えのトンネルの入り口で夕方になり、一旦待機しましたが、何時間たっても長崎からの連絡もなく、こっそりトンネルを抜けて様子を見に行きました。トンネルの出口から見た長崎の町は真っ赤に燃えていました。結局長崎に行くことはできず、歩いて村まで戻りました。
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戦争中の竹やり訓練を実演する吉原さん |
裸の遺体ばかりリヤカーに乗せ
翌日、また学校に集合し、トラックで長崎の町に入りました。それぞれ手分けして救助に当たり、私は爆心地からほど近い長崎大学医学部付近に行くことになりました。
道路は片付けられていましたが、少し中に入ると裸の遺体ばかりでした。道路の遺体をひたすらリヤカーに乗せ、他の人がそれをグラウンドに運び、燃やしていました。遺体ばかりのなかで何も食べる気が起きず、3時間ほど作業に従事してからトラックで村に戻りました。
結婚したときも被爆とはいえず
家に帰って作業の話を父親にしたら、翌日は父親がかわりに行ってくれました。帰ってきて「今日はお前が行かんくて良かった。いろいろやらされたから」と話していました。
いまではこうして話をしていますが、当時は被爆者はまともな子が産めないなどと言われていて、被爆したことをずっと黙っていました。勤務先の大工の親方の世話で結婚したときも、妻には言えませんでした。
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最後に吉原さんは、「核兵器禁止条約になぜ安倍首相は反対するのか」と強い口調で怒りをにじませました。
(新聞「農民」2017.8.28付)
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