私の戦争体験
新潟県農民連会員
渡辺 憲一さん(91)
=新潟市北区在住=
関連/豆も平和もピース 9条が旬です
朝鮮半島、南京、上海…
戦争の恐怖まざまざと
1937年7月7日、中国への侵略戦争が開始され、次々と召集令状がだされて、一家の大事な働き手が戦争へかり出されました。
私が小学5〜6年生の頃、兵士を送る歓送式に動員され、校庭で歌を歌わせられました。その歌をいまも鮮明に覚えています。
41年12月8日、アメリカに宣戦を布告し、“いまこそ決戦のときである”という歌を学校の行き帰りに口ずさんでいました。
運送の列車内で食べ物も
支給なし、空腹・寒さに悩む
がんばる気持ち限界超すことも
そして私は44年12月1日に、元新発田16連隊、後の東部23部隊に入隊しました。4日後、朝鮮半島、満州、中国を経て上海へ向かいました。ここで経験したことは、兵隊とはいえ預けられたのは木の弁当箱と水筒代わりの竹、カンパン2袋で極寒の朝鮮半島へ輸送されました。満州では貨車に乗せられて食べ物も予定通りには支給されず、空腹と寒さに悩まされました。
がんばる気持ちの限界を超すことがあり、私は凍傷で歩けなくなりましたが、置いていかれるので何とか付いていきました。着いたところでは戦争の恐ろしさをまざまざと経験させられました。というのは、南京では私たちがいる兵舎を狙ってB29が爆弾を投下し、ふと頭をあげたら胴体が吹き飛んでいる兵隊がいたり、がれきの下になったりした状況を目の当たりにしたのです。
そういうなかで日本の防衛体制は、中国本土では制空権もなく、米軍のグラマンやB29が自由自在に攻撃してきました。そこで初めて戦争の怖さを知ったのです。
戦争に何度も抵抗する
勇敢な中国人や朝鮮人
日本軍の規律に断固として反対
45年の5月頃、上海の糧秣(まつ)倉庫へ衛兵として派遣され、そこでも第2の怖さを体験しました。
グラマン戦闘機が倉庫に機関砲で撃ってきたので、これはたたかわなければと思い、グラマン目がけて撃ったら、さらに攻撃が増して爆弾も落としていきました。さすがにこれではかなわない戦争だと実感しました。
そして任務を終えて兵舎に帰る途中、再びグラマンがやってきて竹やぶに逃げ込んだものです。
そういう中でこの戦争に抵抗する人たちもいました。それは朝鮮兵たちで、少しでも命を長らえようと集団脱走をしていましたが、結局つかまっていました。
そういう事件は何回があり、朝鮮兵は輸送船に乗せられて日本兵と目的地へ向かいましたが、8割の人が海の藻屑(もくず)となりました。朝鮮兵は堂々と戦争への抵抗を示していましたが、日本兵にどうしてそういった大和魂がないのかと思ったぐらいです。
朝鮮兵は日本に殺されることは本意でなく、日本軍の規律に対しても断固として反対していました。それも集団で抵抗し、手りゅう弾をもっているため、上官たちもいじめることはありませんでした。
揚子江の中にガス弾捨てた
そしてもうひとつ恐れたのは中国の軍隊で、いつ弾が飛んでくるかわからない状況にありました。
7月には揚子江に派遣され、米軍の上陸する舟艇を監視するよう命じられました。
そこで終戦を知ることになりましたが、幸い無線の近くだったので様々な情報を得ることができました。そして本部に帰ったのですが、そこで弾薬などを揚子江の中に投げ捨てていました。聞いた話によるとすべて毒ガス弾だったそうです。その後それがどうなったかは聞いていません。
それから中国の民衆は私たちを不気味な目でにらんでいました。特に南京では恐ろしい顔でにらまれましたが、そのときは南京での大虐殺を知らなかったので、どうしてなのかと思いました。
また、上海近郊で中国の民衆を集めて、トーチカを作らされていました。そこで民衆は全く仕事をしようとはせず、どうしてかと疑問に感じました。それは中国の民衆が何度も抵抗を繰り返したからだと思います。
300万犠牲の上に戦争放棄の憲法
戦後わかったことですが、日本軍は12中隊(一番最後)の隊長が、蒋介石(中華民国総統)の要請で鉄道の工事に50人くらい協力してもらいたいという要請を受けて、率先して人を集めました。
そこへ参加した人たちが帰ってきて「この戦争は軍閥が起こした戦争だ。私は絶対共産党に入る」と言い出しました。私自身は当時よくわかりませんでしたが、帰る船のなかで、それぞれ戦争で感じたことが語られました。一番驚いたのは陸軍中尉が「この戦争の終結は人類永遠の生命の自覚によるもの」と話したことです。
そういうことで軍隊の中にもマルクス主義を学び、隊長にまでなっても共産党でなければならないという人もいたということです。そんな人たちが明治憲法下のもとで戦争に行って命を落とし、300万人の国民が戦争によって亡くなったわけですが、そんなことからも戦争を放棄する新憲法が誕生したのだろうと思います。
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島根・松江市 加茂京子 |
(新聞「農民」2017.8.14付)
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