“通勤”して稲作続けた4年間
作ったからこそ飛散明らかに
避難指示解除準備区域・南相馬市小高区
根本 洸一さん、幸子さん
福島第一原発事故5年
東日本大震災と福島第一原発事故から5年。いまなお避難指示区域に指定されている福島県南相馬市小高区で、原発事故後の2年目、2012年から、茨城大学や新潟大学の研究者らと共同で「試験栽培」に取り組み、稲作を続けてきた農家がいます。福島県農民連会員の根本洸一さん、幸子さん夫婦です。
根本さんは、原発事故前は特別栽培米と有機栽培米を3・5ヘクタールほど耕作し、全量を消費者に直売していました。その水田は、ギリギリで津波被害を逃れましたが、事故後、1年間は警戒区域に指定され、稲作を再開したのは、解除準備区域に編入された2012年からでした。以来、相馬市の避難先から、片道1時間をかけての“通勤農業”をつづけています。
作っても捨てるしかない悔しさ
12年は集落の営農生産組合の仲間と、放射能の影響を調べるための「試験田」として作りました。その結果、収穫した米からは放射性セシウムは10ベクレルほどしか検出されず、安全性が確認できたのですが、この年はなんとイノシシの食害を受け、収穫は壊滅状態。ようやく検査できる量だけは取れた、という状態でした。といっても、収穫があったとしても「試験田」の米は、流通させることはおろか、自分で食べることも許可されず、廃棄しなければなりません。「作っても、捨てるしかない。あれは悔しかったなあ。しんどかったなあ」と洸一さんは振り返ります。
こうした惨状から、翌13年は根本さん一人で作ることに。ところが、この13年産米から、100ベクレルを超える放射性セシウムが検出されたのです。「前年はほとんど出なかったのに、どうして?」――原因がわからないなかで、行政との意見の違い、地域内での葛藤も生まれ、「あのときは、あっちこっちとぶつかって、本当にたいへんだった」と、当時の深い苦悩を振り返ります。
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稲づくりを続けている水田を見つめる根本洸一さん |
たいへんだけどつくり続ける
汚染の原因は、やはり原発事故でした。京都大学の小泉昭夫教授が、福島第一原発で行われたガレキ撤去による粉じんの拡散が原因であることを、継続的なモニタリング測定から明らかにしたのです。この問題では、農水省も独自の調査によって、同様の指摘をしていましたが、原子力規制委員会は否定。その後、政府による調査は打ち切られていました。
国は今でも、この時の飛散を正式には認めていませんが、この年を機に東電は飛散対策を強化するようになり、根本さんの田畑にはモニタリングポストが設けられ、放射性物質の飛散状況も計測されるようになっています。「作ったから、飛散がわかった。作らなかったら、東電は今でも適当な飛散対策しかしなかっただろう。監視役だな」と洸一さん。
小高区でも14年からは流通も可能な「実証田」としての米作りが認められるようになり、根本さん夫婦も1反という小規模ながら、14年以降も米作りを続けています。今年はいよいよ、主食用米と酒米を合わせて1ヘクタール作ろうと考えています。
原発の一番の罪は家族の破壊
根本さん夫婦の苦労は、農業だけではありません。原発事故が発生した当時、洸一さん、幸子さん一家は、市役所勤めの息子さんと、息子さんの妻、3人の孫たちの3世代7人家族で暮らしていました。13日に原発事故のニュースを聞き、いったんは会津に避難しましたが、孫たちの学校開始もあって、4月中旬に転勤で空き家になっていた相馬市の親戚の家を市の借り上げ住宅にしてもらい、一家で移りました。以来、この家が生活の拠点となっています。
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幸子さん |
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洸一さん |
しかし、町の大部分が帰還困難区域となっている大熊町の小・中学校で英語教師をしていた息子さんの奥さんは、原発事故後は仙台の大学で教えることになり、単身赴任。また相馬市の親戚宅は一家7人で暮らすには手狭だったため、南相馬市鹿島区にもアパートを自費で借り、幸子さんは平日は相馬市の家で孫たちの食事を作り、休日は鹿島区のアパートで過ごし、日中は洸一さんと連れだって小高の田畑に通う、という3カ所を転々とする生活を5年間も続けてきました。
幸子さんは「原発事故のいちばんの罪は、家族を破壊したこと。避難解除されても、若い人は帰れない、年寄りは帰りたい。本当に多くの人間関係をめちゃくちゃにしてしまった」と言います。
穏やかな人柄の洸一さんも、原発に対しては深い怒りを隠しません。
「5年も農作業できなければ、体力だって落ちるし、また作れと言われてもすぐに重労働には戻れない。どう考えても原発事故はひどい。しかも国や財界は原発を輸出するって言うんだから、人間のすることだろうかとすら思う。日本から原発がなくならないのが、本当に悔しい」
(新聞「農民」2016.3.21付)
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