東京農大「満州報国農場の記憶」展
戦後70年
平和の意義と大学の役割、
国際協力の意味を考える
満州開拓移民の拠点農場に
終戦前後、半数以上が落命
戦後70年にあたって、東京農業大学と戦争を回顧する企画展「東京農業大学満州報国農場の記憶」が9月30日まで、東京都世田谷区の東京農大「食と農」の博物館で開かれました。
東京農大満州報国農場(湖北農場)とは、東京農大の「外地農場」の一つとして、また、国策による満州農業開拓移民の拠点として1944年、満州国東満総省密山県湖北(現在の中華人民共和国黒竜江省密山市)に設立されました。
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報国農場の遺留品も展示されました |
ソ連との国境まで数十キロの農場の面積は公称7000ヘクタールとされました。しかし、夏は湿地、冬は凍土となる名ばかりの農地で、学生が農場に滞在中、実際に開墾した面積は、わずか3ヘクタールほどにすぎませんでした。
報国農場は、徴兵や志願によって兵士として戦地に赴いたのではなく、大学の正課の実習のために100人近い大学生が渡航し、終戦前後の混乱のなかで、半数以上が命を落としたのでした。
生還者の多くが、死亡した学友の亡骸を葬ることすらできなかったという自責の念から、「自分たちの“戦後”は終わっていない」という思いを抱き続けているといいます。終戦に続く苦難に満ちた「ながい戦後」の記憶を呼び起こし、現在の平和の礎としての大学の役割と国際協力の意味を再確認するために企画されました。
会場には、湖北農場に関する資料、地図、学生たちの日記や手紙類、新聞記事のほか、農場での生活の様子を記録した写真などが展示されていました。
着の身着のまま酷寒の中逃避行
農場とその後の逃避行の実態はどうだったのか。史料によると――。
農場の朝は、朝5時の起床ラッパで始まり、朝食前の草刈り、食後は宿舎ごとに農耕班、伐採班、建築班、畜産班、炊事班に分かれて作業が行われました。
45年8月9日未明、ソ連軍が満州国境を越えて侵攻を開始すると、満州農場の農大生たちにも情報が伝わり、学生たちは着の身着のまま退避を始めました。
途中、栄養失調による衰弱死やソ連軍による機銃掃射でも犠牲者がでました。農大生たちはソ連軍に投降し、収容所暮らしが始まりましたが、収容所から解放され、小グループまたは単独で、満州各地の収容所を転々とすることに。その過程で、栄養失調や伝染病などで死亡する学生が続出しました。
1946年6月19日、最初の1人が引揚船で帰国したのを皮切りに、満州の酷寒を生き延びた農大生たちが順次帰国の途につきました。
結局、渡満した87人の学生のうち53人が犠牲になり、このほか農場の運営にかかわった上級生や教職員とその家族の計7人が殉職しました。
(新聞「農民」2015.10.5付)
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