手記
フィリピンから引き揚げ
遊佐 美智子さん
(福島県二本松市在住)
フィリピンのマニラで生まれた遊佐美智子さん(福島県二本松市在住)は学校に入学するまでは幸せな幼少時代を過ごしていました。しかし、戦火が激しくなると父親は現地召集され、母親は4人の子どもを連れてジャングルに逃げることになりました。長女だった遊佐さんは自らの経験を絵にして残しています。手記を紹介します。
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遊佐美智子さん |
自らの戦争体験を絵にして残しました
ジャングルを夜中に逃げ回る
1945年8月15日の終戦。私も7歳のときだったので、今は夢のような、本当につらいことしか思い出せません。
フィリピンからの引き揚げは、母は4人の子どもを連れて大変だったと思います。私が1歳の妹を背負って、5歳の弟、3歳の妹を連れて逃げました。
明るいときはアメリカ兵に見つかるので、夜中にジャングルを逃げます。逃げるときは、食べものもなく、現地人の畑からサツマイモなどを黙ってとって生きてきました。カエルやヘビ、草の根も食べました。
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1944年に撮った家族の写真。美智子さん(真ん中)以外、弟(4歳)と妹(2歳、0歳)は天国に旅立って行きました |
おっぱいの出ない母はどんなに苦労したでしょうか。栄養失調で死ぬのは子どもが先です。もう1カ月、戦争が終わるのが遅れたら、私も死んでいたと思います。
栄養失調で3人弟妹亡くした
“ご飯食べたい” しぐさしながら
一番先に弟が亡くなりました。母に抱かれて、「ご飯が食べたい、おにぎりが欲しい」というようなしぐさで手をぶらぶらさせて死んでいったのが印象に残っています。
その後、自分が背負っていた1歳の妹もいつの間にか背中で死んでいました。
3歳の妹も亡くなったとき、掘るものがなかったので、手で土を掘って埋めましたが、雨が降ったら出てきてしまうようなものでした。
ほかの人は、土のくぼみがあれば、間もなく死んでしまうような子どもをそこに置き去りにしていました。その子の「おかあちゃーん…」と呼ぶ声が辛い思い出です。
結局、私一人残って3人の弟と妹がみな栄養失調で亡くなりました。
逃げる途中で終戦知らされる
本当に寂しい9カ月間でした。いつもビクビクしていました。
道の両側には死人(兵隊、一般人)がゴロゴロしていました。死人の山ばかりを見ていたので怖いという気持ちはありません。
逃げる最中に、飛行機から白いものが落ちてきて、終戦を知らせるビラでした。おとなはみな、泣いていました。それからアメリカ軍のトラックに載せられて収容所に。少しであっても食事ができましたから、「もっと早くに捕まっていれば」と当時は思ったものです。
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当時の様子を絵にしています |
フィリピンから引き揚げて日本に着いたのが9カ月後でした。
屋根のない貨物列車で父親の実家に帰ったのは寒い11月ごろです。父親も後で帰ってきましたが、本当に無一文になってぼろぼろになって戻ってきました。雪の降る日でした。
今も世界のどこかで…戦争は絶対反対
つらい私の体験語り継いでいく
世界のどこかで今も戦争をしていますが、どうか早く終わってほしいと願っている今日このごろです。
テレビ等で子どもが泣いているのを見ると一緒に私も泣いています。何十年たっても忘れることができません。戦争は絶対反対です。辛い体験ですが、みなさんに語り継いでいきたいと思っています。
(新聞「農民」2014.9.1付)
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