悲惨な体験を紙芝居にして
満蒙開拓青少年義勇軍に参加
横浜市港北区在住 成田富男さん(84)
あの戦争の恐ろしさを
若い人たちに伝えたい
戦後69年。戦争体験を次世代に伝えることが急務となっています。今年の終戦企画として、紙芝居や絵などで戦争の悲惨さ、恐ろしさを伝えている人を紹介します。
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横浜市港北区に住む成田富男さん(84)は紙芝居を通して、自ら経験した満蒙開拓青少年義勇軍の体験を伝えています。終戦(1945年8月15日)の3カ月前、15歳のときに満州(中国東北部)に向かって出発。3年後の48年に帰国するまで、義勇軍、ロシアでの抑留生活を経験しました。
帰国後は、金属加工品販売などの仕事に携わっていました。72歳のときに、今まで書きためていた抑留生活の絵を、近くの福祉施設の美術展に出品。鑑賞した人から「もっと当時のことを詳しく知りたい」と感想文が寄せられ、紙芝居をつくることを決意しました。本格的に絵を描いたことはなく、水彩絵の具で何回も描き直しながら完成させました。
呼ばれれば、どこへでも出かけて行って紙芝居を披露。これまで学校や公民館、市民プラザなど100回を超えています。「戦争を知らない世代に少しでも自分の体験を伝えたい」と、今なお元気です。成田さんの大きな響く声で聴衆はストーリーに引き込まれていきます。
成田さんが紙芝居で話している体験記の要旨を紹介します。
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身ぶり手ぶりを交えて紙芝居を披露する成田さん |
母は泣きながら
私は1929年に兵庫県の城崎町(現豊岡市)で生まれました。14歳のときに、満蒙開拓青少年義勇軍に志願し、茨城県の内原訓練所に行きました。体調を崩し、一度は郷里に帰宅するものの、父の強い説得で、再び内原に。母が泣きながらバス停まで見送ってくれました。
終戦の3カ月前(15歳)に、博多港から木造漁船で韓国へ。到着後、当初乗船予定だった金属製船が潜水艦に撃沈されたことを知りました。
北満州の辺境の地に移動し、そこで約3カ月。馬の世話や釣りなど軍隊とは無縁の生活を過ごしました。
終戦の6日前に、小隊50人とともに丘に登り、ソ連軍の攻撃に備えて陣地をつくりましたが、ソ連軍は素通りし、後方の本隊を攻め、本隊は全滅しました。
死臭が鼻を突き
私たちは降伏し、捕虜となってシベリアに移動することになりました。移動中の3日間は激戦地を通り、日本軍の陣地跡地には死体が累々と横たわっていました。死臭が鼻を突き、うじ虫がたかりハエが竜巻のように渦を巻いていました。埋葬したい気持ちを抑えて、ただただ手を合わせ、念仏を唱えながら通り過ぎるしかありませんでした。これが一番悲惨な体験だったと思います。
シベリアでの最初の冬は、バイカル湖北辺での森林伐採で、12時間労働でした。食事は黒パン一切れにジャガイモとキュウリが入ったスープが主でした。伐採時に土を掘って出てきた虫などを食べて飢えをしのぎました。4棟の宿舎に400人が収容され、重労働と栄養失調で一冬30人が死亡しました。
ある朝、水くみに行ったとき、水が足にかかり、右足の甲から先の感覚がなくなりました。凍傷です。先輩たちが懸命にもんでくれて、その部分を切断せずに済み、2カ月で治りました。
収容所には風呂はなく、軍隊用の野戦の入浴施設に3カ月に1回入りました。トイレもなく地面に2メートルぐらいの穴を掘って、そこで用を足しました。身長が低かったため、水くみや宿舎のそうじ、病人の世話なども受け持ちました。宿舎生活でよく面倒をみてくれた先輩2人が逃亡を企て、捕まって銃殺になりました。遺体は見せしめに外に放置されました。
日本が「戦争しない国」に変わっていた
平和を永遠に
46年4月に、列車で移動し、ウラル山脈南端に位置するチカロフ(現在のロシア連邦オレンブルグ)という軍都に到着し、約2年半をそこで過ごしました。シベリアに比べるとかなり暖かく、仕事は建築作業でした。
48年10月に、ナホトカ港から復員船で京都の舞鶴に到着。船から見えた秋の紅葉や松の木など赤と黄、緑色の色彩豊かな景色に感動しました。家族総出で出迎えてくれました。
帰国して一番うれしかったのは、日本が戦争をしない、平和を守る国に変わっていたことです。運よく生き残ることができましたが、この平和を永遠に守るよう努めていきます。
(新聞「農民」2014.8.25付)
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