「農民」記事データベース20140210-1104-05

被災地・山田町(岩手)を訪ねて

農民連食品分析センター 泉 潤


復興に重要な交通はまだまだ
見渡す限り残るツメ跡にびっくり

 年始年末、私は故郷の岩手県に帰省しました。実家がある前沢は内陸の平野部です。東日本大震災のときには、地震の揺れだけでしたが、それでも建物や道路などにかなり被害が出たそうです。あれからもうすぐ3年になりますが、さすがに震災の傷は、身の回りではほとんど気づかないほどになりました。

 沿岸部がどうなっているのかは、自分の故郷のことといっても、ほとんど知りませんでした。震災直後こそ車で様子を見に行ったりしたものの、その後は機会もなく、「あまちゃん」で大きく取り上げられて話題になったことだし、復興がだいぶ進んでいるだろうと思っていました。

 電車のつもりが走っていない…

 今年の帰省中に、宮古と山田町に観光がてら、電車で遊びに行こうと思い立ちました。前沢からだと、盛岡まで東北本線で行って、そこから海側に向かって山田線で、早池峰山麓に沿って宮古へと行きます。山田町までも電車で行くつもりだったのですが、宮古から先はいまだに走っていないとも聞きます。現地に行けばその辺の事情もわかるだろうと行ってみたのですが…。

 確かに、電車は宮古までで、内陸部だけしか動いていませんでした。夕方に近い時間になっていたのですが、バスで山田町に行ってみることにしました。一回も行ったことはないけれど、駅前まで行けば観光案内所もあるだろうし、そこで泊まれるところを教えてもらおうと思っていました。

 バス停に着くとあたりは真っ暗

 1時間近くもバスに揺られた後、山田本町を過ぎて夕刻、ようやく山田駅前のバス停にたどり着いて、降ります。

 すると真っ暗です。明かりがほとんどありません。アイフォンの地図を頼りに駅を探します。その場所には、コンクリートの基礎部分だけがありました。

 どうやら周りに仮設住宅が何件か建っていて、これが駅前商店街の代わりのようです。

 晩ご飯を食べられる店を探して、泊まれる場所がないかと聞いてみます。ビジネスホテルが1軒あって、そこでたぶん泊まれると教えてもらい、タクシーをとばしました。

 被災者は復興に一生懸命なのに

 翌朝、もう一度戻ってきて山田町中心街から漁港を歩いて回ります。そこはいまだに大津波のつめ跡が生々しく、仮設住宅が建っているほかは家のコンクリートの跡だけが広がっていました。陸中山田駅はありませんでした。

 釜石へ行くバスは、5キロほども海岸沿いに北へ行ったところにあり、私が前夜泊まったホテル近くの道の駅から出ていました。釜石から遠野を通って内陸へ向かう鉄道は動いていました。

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津波のつめ跡がまだ生々しい山田町

 この旅行で私は本当に驚きました。復興が進んでいないという声を聞くことはあったのですが、これほどとは全然思っていなかったからです。

 山田町に住んでいる人たちは、復興に一生懸命取り組んでいるような印象を受けました。たとえば途絶えていた朝市を再開させ、もらったパンフレットを見ると地元の商工会青年部なども熱心に活動しているようです。

 両親に聞いた話だと、あまちゃんで一躍有名になった久慈市本面を走る第三セクターの三陸鉄道は、宮古から向こうの沿岸部は通そうという計画で工事をしているそうです。しかし、JR管轄の宮古から南、釜石や大船渡に行く鉄道は前述した状況のようです。

 1日2、3便を走らせるだけで

 復興には、第一に交通の足、そして雇用・仕事が大切だと思います。もうすぐ3年になろうとしているのに、交通がこれほど復旧していないとは思いませんでした。たとえば建設資材を運ぶのにも、地域の特産品などを活発に輸送させるのにも、鉄道はやはり必要だと思います。前から赤字路線だったというのであれば、一日に2、3便を走らせるだけでもいい。線路さえあれば貨物列車も走れます。

 JRができないのであれば、これほどの規模の大災害なのだから、国が被災地沿岸の路線を全部買い取って国営にしてもいいと思います。大規模な工事になるのであれば、それはむしろ、地元の建設業者ももうかり、雇用も生まれます。一石三鳥にも四鳥にもなります。復興を実現させるのであれば。

 以上のことを故郷を歩きながら考えていました。

(新聞「農民」2014.2.10付)
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2014年2月

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