日本販売農業協同組合連合会(日販連)元会長・農民連顧問
奥 登さんを偲しのんで
―思い出のエピソードを交えて
日販連代表理事専務 中塚敏春
本会再建時に会長だった奥登元会長(農民連顧問)が6月10日に94歳で逝去されました。ここに、ご功績を偲び、謹んで哀悼の意を表します。
百姓が値段をつけて出荷することがあっただろうか――下郷農協の産直論
「今から職員にも話していない下郷農協の産直論を教える」。1984年夏、3年連続夏休みに下郷農協(大分県中津市耶馬溪町)の現場体験に伺っていた時、奥組合長(当時)は私を農協の小部屋に呼び、そう切り出しました。その第一は、農民が農産物や畜産物の値段を決めて販売すること。「いつ何時市場に出荷するのに百姓が値段をつけて出荷することがあっただろうか」という奥組合長の言葉が、原点を表していました。第二に、消費者、消費者団体に直接販売して、資本に収奪をさせない、第三に、単品ではなく、地域にある青果物、畜産物、加工品など、あるもの全てを販売することで地域を豊かにする、都会から農村への金の流れをつくること、最後に、「これをやるには、体制の人と反対のことを考えることじゃ」と話してくれました。
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下郷農協まつりで参加者と談笑する、ありし日の奥元会長(右) |
大学卒業後に愛媛県農民組合しか経験のなかった私は、とんでもない教えを受けてしまったと感動と興奮で眠れませんでした。まさかこの一件が私の人生そのものの糧になるとは全く予期できませんでした。
組合員への恩返しに診療所をつくるんじゃ
1989年1月、全国で6番目の農協立の「下郷診療所」が誕生しました。私は前後半年間を単身赴任で大分県の耶馬渓に駐在し、診療所を開設しました。きっかけは、その前年に理事会に呼ばれたことでした。
「ワシはのう、農協をつくったり、農協のために力を貸してくれた組合員に恩返しをしたいんじゃ。年を取ったら医療や福祉が絶対に必要なんじゃ。そこで近所の医院を買い取ろうと思うんで、あんたが見て決めてくれんか」、そう奥組合長に言われ、夜に医院に入って見ました。この時の理事会で、下郷農協は7億円で医院を買い取ることを決めました。まさかその後JAバンク路線による減損対象となり、農協の存続問題になるとは全く予想もしなかったことでした。今日では診療所とデイケア施設には、奥元組合長が夢見たとおり当時の役員、組合員が楽しく集っています。
日販連再建を同じ釜の飯を食ってやらんか
休眠中の日販連を、奥組合長が会長となって1983年に再建しました。しかし、1994年日販連は再度の経営不振に陥りました。この時出張から帰った日本文化厚生連職員の私を、当時の奥会長は待ち構えるように会議室に呼びました。「今、日販連は経営が大変な状態にある。出向ではなく文化連を辞めて同じ釜の飯を食わんか」と日販連への移籍を求められました。
今日、日販連は奥元会長のご指導のとおり全国の産直農協の連合会として、さらには農民連加入の唯一の全国連として、下郷農協の産直の原則を見つめながら勇躍前進しております。何よりも、奥元会長がつくられた下郷農協の理念を堅持すべく、横山金也前組合長、矢崎和廣組合長が日販連会長を代々引き継ぎ、他の連合会にない、民主的連合会としての地歩を築いています。
産直の運動論が情勢を切り開く
産直の最大の困難となった茨城玉川農協の豚肉偽装事件は2001年に発覚し、東都生協との協議を重ね、奥元会長が立会人となり、産直の継続に向けて2003年3月12日に合意書の締結となりました。いかなる困難に巡り合ったとしても粘り強い相互理解に向けた取り組みで産直は再生できることを実践的に示すことができました。産直に深い思想性と先見性、運動論があれば、いかなる困難も乗り越えられることを私たちに教えてくださいました。
また、北九州市民生協、大阪三生協、そして東都生協の設立に深く関与され、日本の消費者運動と農民運動に「産直」という言葉と事業を作り出した偉業こそ奥元会長が作り上げたものであり、下郷農協の歴史とともに高く評価されなくてはなりません。
日本農業の再建において産直運動で情勢を切り開くために遺志を引き継ぎ、全力で奮闘することをお誓いし、お別れの言葉といたします。安らかにお眠りください。
(新聞「農民」2013.9.23付)
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