「農民」記事データベース20130408-1064-01

福島でふんばることが
皆さんへの恩返しです

 東日本大震災と福島第一原発の事故から2年。放射能で自給牧草や敷きワラが使えなくなった福島県農民連の酪農家に、北海道農民連の酪農家から牧草を送る支援が今も続けられています。3月22日から25日に、釧根地区でマイペース酪農(※)に取り組む酪農家の女性たちが福島を訪れ、福島の酪農家らと交流しました。


牧草支援がきっかけで

マイペース酪農の女性
被災した酪農家と交流

 福島の苦しみを決して忘れない

 「福島の苦しみを、私たちは決して忘れていません。原発は負の遺産。経済効率や便利さだけを追いかける社会のあり方や、私たち自身の生活も問われていると思っています。これからも福島で起こっていることを、自分のこととして受け止めていきたい」とあいさつしたのは、北海道厚岸町の酪農家、小野寺浩江さんです。今回は、別海町で同じく酪農を営む森高さよ子さんと、別海町町議(日本共産党)の瀧川栄子さんの3人が、農民連前会長の佐々木健三さんらに招かれ、福島を訪れました。

 今回の交流は、昨年、マイペース酪農交流会に参加している男性たちが福島を訪問、交流した際に、佐々木さん夫婦が「今度はぜひ女性たちも来てください」と呼びかけたのがきっかけでした。動物の命をあずかる酪農家が家を空けるのは容易ではありません。森高さんは、「昨年の福島訪問に参加して福島の現状を目にした夫が“女性たちも現地に行くべきだ”と背中を押してくれた」と言います。

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南相馬市の津波の被災地を訪れた森高さん(右端)、瀧川さん(右から2人目)、小野寺さん(左から2人目)

 3人は、佐々木さん夫婦がずっと支援を続けている双葉町民が入居する仮設住宅の皆さんと懇談したり、新設された浜通り農民連の直売所「野馬土(のまど)」を訪問し、福島県農民連会長の亀田俊英さんらの歓待を受けました。

 富岡町の大規模養豚場に勤務していた岡田安義さんは、原発事故によってかわいがっていた豚を置いて避難しなければならなかった苦しみを語りました。「いまは郡山市で暮らしているが、これほど長く戻れないとは思わなかった。原発事故さえなければ…。人災なのが悔しくて…」と、岡田さんは言葉を詰まらせていました。

 浜通り農民連会長で、南相馬市の酪農家の杉和昌さんは、「今でもまだ牧草は試験栽培の段階で自給できませんが、北海道の皆さんの牧草で、酪農が続けられています。全国の皆さんの支援で『野馬土』という会員が集まる場所もでき、みんなの表情も明るくなってきました。ここでふんばることが、皆さんへの恩返しだと信じて、がんばります」とあいさつしていました。

 一行は、亀田さんの案内で、南相馬市の避難指示解除準備区域内を視察。同地域は、いまなお立ち入りは昼のみで泊まることができません。雑草だらけになった荒れた畑や住宅、ゴーストタウンと化した商店街、津波で砂地になったままの広大な水田――。亀田さんは「原発から20キロ圏外の避難は自主避難とされ、東電の補償もない。政府は、住民の意見も聞かずに避難区域の見直しをしているが、状況は2年前よりむしろ深刻化している」と指摘します。
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仮設住宅に入居している双葉町のみなさんとの懇談

ものづくりを奪われた
つらさが伝わってきた

 私たちの方が励まされる思い

 小野寺さんは、「どんな自然災害でも町が丸々全部なくなるなんてことはなかった。原発事故は天災じゃない。人災ですね」(小野寺さん)、「農民はものづくりが生きがいなのに、生産を奪われたつらさが伝わってきました」(森高さん)と、感想を話していました。

 さらに3人が口をそろえたのが、「こんな厳しいなかでも福島の皆さんがみんなで支え合いながら、前を向いていたのが印象的だった。むしろ私たちの方が励まされる思いがした」ということです。「福島の“いま”を、一人でも多くの人に知ってもらい、政治を変える力にしたい」(瀧川さん)――そんな確かな手ごたえを感じた交流ツアーになりました。


 (※)マイペース酪農 輸入飼料に依存した大規模酪農ではなく、自給牧草に依拠した酪農

(新聞「農民」2013.4.8付)
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2013年4月

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