史実から消えた謎の軍隊
(上)
調査記録を自費出版した
青山学院大学名誉教授
雨宮(あめみや) 剛(つよし)さん
農耕勤務隊――航空燃料増産に
強制連行された朝鮮人を動員
第2次世界大戦末期、日本軍によって農作業に従事させられ、食糧と燃料の増産のために動員された人々がいた――。戦後67年たった今、この事実が歴史から消されようとしています。この「銃をもたない軍隊」の正体は何か。
「銃をもたない軍隊」の正体は
青山学院大学名誉教授で東京都町田市在住の雨宮剛さん(77)は5月、『もう一つの強制連行・謎の農耕勤務隊―足元からの検証―』を自費出版しました。
1934年に愛知県猿投(さなげ)村(現豊田市)で農家の7男として生まれた雨宮さん。45年5月のある朝、行軍している陸軍部隊を目にしました。全員がくわを担ぎ、歌集を見ながらぎこちなく軍歌を歌っていました。雨宮さん宅の前にくると、部隊は雑草が生い茂っている荒れ地へと分散し、開墾作業を始めました。
間もなく知ったことですが、彼らは朝鮮半島から連行された青年たちで、正式名を陸軍農耕勤務隊といいました。その目的は食糧増産に加え、航空燃料用のサツマイモやジャガイモづくり、松根油(しょうこんゆ)の原料となる松根掘りにあったのです。
しかも、兵隊のえりには、本来はあるはずの星の紋章が一つもありませんでした。つまり兵隊でありながら、軍隊としての階級がなかったことを意味します。当時、10歳だった少年の目には非常に奇異に映りました。
イラストで見る農耕勤務隊。『もう一つの強制連行・謎の農耕勤務隊』から |
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画・栗林一路 |
収容所さながらの生活強いられ
雨宮さんはその後60年余り、この兵隊たちのことが脳裏から離れずに過ごしてきましたが、教員生活に終止符を打ち、難民支援や通訳ボランティアにかかわるかたわら、「自分史の空白(謎)を埋め、いつか自力でこの疑問を解き、記録に残しておかねば」と強く願ってきました。
調査を開始できたのは2007年から。手元に十分な史料もなく、証言者は年を追うごとに少なくなっていくなか、故郷・愛知での親しい友人・知人からの聞き取りから始め、近県から全国へと調査の網を広げていきました。
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著書を手にする雨宮さん |
そこでわかったことは、農耕勤務隊が厳しい軍律と上官による暴力や虐待で収容所さながらの生活を強いられ、さらに過酷な労働と飢餓に苦しんでいたことでした。
彼らは、空腹を満たすために、近くの農家に助けを求めることはありましたが、地域や住民に危害を加えることはなく、当時の住民たちによると「風のように現れ、風のように去って行った」といいます。朝鮮半島全土から集められた人数は、約1万2000人といわれています。
韓国にも渡って証言集めの旅
雨宮さんは韓国にも渡り、3人から話を聞きました。「愛知にもう一度行ってみたい」と、好意的に語る元隊員もいました。その半面、上官による制裁のことを聞くと辛そうに目頭を熱くして沈黙してしまった元隊員、インタビューを受けることに乗り気でない家族が見守るなかでの、張り詰めた雰囲気のなかでの聞き取りなど、それぞれの思いが複雑に入り混じった証言集めの旅でした。
こうした息が詰まるような辛い作業であった一方で、うれしく、心温まる話も聞き出すことができました。戦前、軍部の絶対主義、秘密主義が日本全土を支配し、国民をがんじがらめにしていた暗黒時代。権力者にこびることなく、農耕勤務隊をわが子のように温かく迎え、腹いっぱい食べさせ、日本兵による監視の目をかいくぐって、身の安全を確認してから兵舎に帰した、当時の農民たちの証言です。
大自然を相手に“農”とともに生きてきた農民だからこそ、命がけで、人権と正義のために軍に抵抗できた――今回の調査の大きな成果でした。
雨宮さんは、当時の史料や情報のさらなる提供を呼びかけています。連絡先は TEL・FAX 042(771)3707(雨宮さん宅)まで。
(つづく)
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本書はA5判、554ページ、4000円。注文は雨宮さんまで。
(新聞「農民」2012.8.27付)
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