「農民」記事データベース20120521-1021-09

女性部あってよかった

支え合い、励まし合ったこの一年

関連/南相馬市の女性たちは今…


福島県女性部総会 in 南相馬市

 「農民連があってよかった」「女性部に支えられた一年だったね」――東日本大震災と福島第一原発事故から一年。福島県農民連女性部の総会が4月29日、南相馬市小高区で開かれ、全県から16人のお母さんたちが集いました。

 ガレキ処理が復興の足かせに

 同区は4月16日に警戒区域が解除され、立ち入りができるようになったばかり。総会では、浜通り農民連女性部の渡部チイ子さんの夫で日本共産党市議の寛一さんが、南相馬市の現状を報告しました。

 寛一さんは、震災直後は原発事故で行方不明者の捜索もできなかったこと、避難区域の設定によって賠償内容が線引きされ、住民は分断に苦しんでいること、市の除染作業は大手ゼネコンの熊谷組が一括受注し、農家独自の農地除染などは自己負担となること、放射性廃棄物やガレキの処理が決まらず、復興の大きな足かせとなっていることなどを、ていねいに説明しました。

 ものづくりを続けていきたい

 そのあとは、全員がひとこと発言。

 桑折町の八巻カツミさんは、「わが家は作ったものはすべて放射能検査しています。それも農民連に分析センターがあるからできることで、本当に感謝しています。昨年は米を作らず、ハウスキュウリだけでしたが、今年はがんばって作ろうと、冬のあいだ農地除染にも取り組んできました。昔の農地は戻ってこないけれど、後継者もいるので、少しでもいい農地になるように努力して、ふるさとでもの作りを続けていきたい」と、語りました。

 桃やあんぽ柿などの賠償請求運動に取り組み、史上最高の会員数を達成した県北農民連の若い専従職員の加藤和佳子さんが、「この一年は本当に皆さんのいろんな思いに触れることができて…」と言葉を詰まらせると、すかさず「この子はこんな細い体で、事務所に集まるいろんな声を一身に吸収してくれたのよ。よくがんばってくれたね」という声がかかりました。

 このあとも、嫁姑(しゅうとめ)問題に悩むお嫁さんの話にみんなで涙したり、「立ち入り禁止となっている警戒区域内のわが家に一時帰宅してみたら、野生化して丸々と太った豚が寝そべってくつろいでおり、ものすごい剣幕でこっちが追っ払われた」という、笑えないけれど笑ってしまう話に大笑いする一幕も。「原発事故というこの体験を忘れることなく語り継いで、日本から原発をなくす力にしていこうね」と語り合いました。

 総会のあと、一行は浜通り農民連女性部の案内で、立ち入り禁止が解除されたばかりの小高区の津波被災地を視察しました。津波のつめあとが生々しい光景に言葉を失いながらも、政府の復興政策の無策ぶりに怒りの声が噴き出していました。


南相馬市の女性たちは今…

松本幸以(ゆきい)さん

 5年前に夫が亡くなり、義母と二人暮らしでしたが、東日本大震災の津波でその義母を亡くしました。私は震災直後の混乱で手足を負傷。原発事故で行方不明者の捜索もできなくなり、今でも私がケガなどしなければ、義母は助かったのでは…と、ずっと苦しい思いでいます。

 夫の存命中はトラクターに触ったこともなかった息子が、夫の死後は外勤めをしながら週末だけ戻ってきて、2町6反の田んぼを守ってきました。農民連の皆さんの力を借りて、トラクターも新調して、農業を続けようとがんばっていた矢先の震災でした。原発事故で自宅も警戒区域に入ってしまい、生きる気力もなくして、一人暮らしで、途方にくれていましたが、農民連女性部の皆さんがいつも励ましてくれて、その励ましを支えに、少しずつですが、前を向いて歩こうと思えるようになりました。

根本幸子さん

 私も震災後、あちこち避難していましたが、会津農民連の皆さんに「おいで」と言っていただき、救われました。もう本当に感謝しています。

 60歳を過ぎて知らない土地で暮らすのもつらくて、やはり南相馬市に戻りたいと思い、今は隣の相馬市で夫婦で暮らしています。震災前は現役で働いていたのに、今は、何もすることがなくて、だんだん頭がからっぽになって…。これには本当に困っています。でもこれではいけないと、今朝もウオーキングしたんですよ。

 この一年、農民連女性部にオンブに抱っこで、このつながりがなかったら、とてもここまで来られませんでした。

(新聞「農民」2012.5.21付)
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2012年5月

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