放射能汚染地帯を行く
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政府、県、市が出した作付けに関する要請文書を示しながら「補償の話もなく、作るなと一方的に言うのはおかしい」と話す安川さん |
収穫の終わったいま、玄米と白米の最終的な検査をすることになっている。セシウムが出なければ自分で食べようと思っている。
安川さんは戦前、15歳の時に、満蒙開拓青少年義勇軍として満州へ渡った。戦争末期に一時帰国し、実家にもどっていた時、終戦を迎えた。
安川さんの住む南相馬市原町区大木戸は、戦前、農民から土地を取り上げて戦争のために飛行場が作られた。戦後、この飛行場跡地は食糧増産のために農地として解放され、安川さんは昭和22年、1町歩の土地を譲り受けた。飛行場の跡は硬い土で鍬(くわ)が入らず大変だった。当時は今の何倍も苦労した。放射能は目に見えないけれども、当時は機銃掃射空襲で殺された友人もいた。「どれほど苦労してやってきたか、国の大臣に言ったってわかんね」と、安川さんははざ掛けで干した稲をそっとなでた。
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収穫の終わった安川さんの田んぼ |
「私らは、米を作って自分で食べて、残りを売って生活しているのだから、生活権を侵されているんだ。ちゃんと補償してほしい」と言う。
安川さんは「もう、子どもたちは孫を連れて帰ってこない。ここは孫が安全に過ごせるようなところじゃなくなった」と言う。
それでも「ここがどんなに変わろうと、ここで米を作りたい…」―84歳になった安川昭雄さんの願いだ。
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茨城・石岡市 鈴木 伸子 |
[2011年11月]
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