放射能汚染地帯を行く
リポート(6)福島・南相馬市
フォト・ジャーナリスト 森住 卓(たかし)
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生活権を侵された ちゃんと補償しろ
安川昭雄さんは、福島第一原発から北に23キロの南相馬市で、有機栽培米を作っている。安川さんは11年前に有機栽培を始めた。肥育の黒毛和牛を飼い、糞(ふん)は米ぬか、豆かすなどと混ぜて発酵させ堆(たい)肥にしている。安川さん自慢の堆肥を見せてもらった。乾燥させた堆肥ににおいは何もない。
近隣農家に呼びかけ、有機栽培の研究会を作って栽培技術や販売などの研究も熱心だった。安川さんの水田は、昨年、有機栽培技術実証ほ場に指定された。
原発事故で田んぼが汚染し作付けできるのか心配した。今年も2月には種籾(もみ)の塩水選を行って準備を始めていた。県や市は、事故後「作付け制限区域」として作付け可能か不可能か、その判断に揺れていた。国が明確な方針を迅速に示さなかったためだ。
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福島県は「『避難区域』、『計画的避難区域』、『緊急時避難準備区域』に指定される以外では、稲の作付けを行っていただいて差し支えありません」(「農家の皆様へ」4月12日付)と言う。しかし、南相馬市の「地域水田農業推進協議会」は、「市内全域で稲の作付けを行わない」と決定した。
どんなに変わろうと、ここで米作る!
それでも安川さんは、放射性物質の汚染状況を調べるために試験的に作ることにした。事故で汚染したからといって、有機栽培の田んぼの作付けをやめるわけにはいかなかった。有機栽培の田んぼで試験をやらなければ、汚染具合を調べられない。誰もやらないので、安川さんが試験栽培を行った。5月に種をまき、今まで通り田の草はていねいに取った。
思いのほか良い出来だった。稲刈りの前、安川さんはNGOの人に頼んで、放射性物質の検査をしてもらった。結果はキログラムあたり120ベクレルあった。政府の定めた暫定基準値内だった。そして10月末、稲刈りをした。
「行政には試験をしているのだから放射能を調べてほしい。調査したデータは行政も共有してほしい」と訴えたが、行政は「検査はできない。作った米は廃棄して下さい」としか言わない。「廃棄するなら、労賃の補償や廃棄方法も教えてほしいと言っているが何も返事がない」と安川さんは怒る。
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政府、県、市が出した作付けに関する要請文書を示しながら「補償の話もなく、作るなと一方的に言うのはおかしい」と話す安川さん |
収穫の終わったいま、玄米と白米の最終的な検査をすることになっている。セシウムが出なければ自分で食べようと思っている。
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安川さんは戦前、15歳の時に、満蒙開拓青少年義勇軍として満州へ渡った。戦争末期に一時帰国し、実家にもどっていた時、終戦を迎えた。
安川さんの住む南相馬市原町区大木戸は、戦前、農民から土地を取り上げて戦争のために飛行場が作られた。戦後、この飛行場跡地は食糧増産のために農地として解放され、安川さんは昭和22年、1町歩の土地を譲り受けた。飛行場の跡は硬い土で鍬(くわ)が入らず大変だった。当時は今の何倍も苦労した。放射能は目に見えないけれども、当時は機銃掃射空襲で殺された友人もいた。「どれほど苦労してやってきたか、国の大臣に言ったってわかんね」と、安川さんははざ掛けで干した稲をそっとなでた。
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収穫の終わった安川さんの田んぼ |
「私らは、米を作って自分で食べて、残りを売って生活しているのだから、生活権を侵されているんだ。ちゃんと補償してほしい」と言う。
安川さんは「もう、子どもたちは孫を連れて帰ってこない。ここは孫が安全に過ごせるようなところじゃなくなった」と言う。
それでも「ここがどんなに変わろうと、ここで米を作りたい…」―84歳になった安川昭雄さんの願いだ。
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茨城・石岡市 鈴木 伸子 |
(新聞「農民」2011.11.14付)
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