新聞「農民」元編集長
塚平 廣志さんを悼む
農民連元代表常任委員 小林 節夫
長年、新聞「農民」の編集に携わった塚平廣志さん(83)が9月3日、亡くなられました。
塚平さんとの縁は、1961年、長野県の佐久でおこった明治乳業との乳価闘争の取材に、当時アカハタ日曜版の記者として来られた時からです。アカハタ日曜版の一面全部を使った集会やデモ、ストライキの報道は、全国的に衝撃を与えたようでした。それまでは、農民運動とか社会変革というようなことにはノンポリだった私に、目を開かせてくれた一人が塚平さんでした。
そんな縁から、農民懇時代の終わりのころ、塚平さんが事務所にやってきて「ニュースづくりを手伝わせてほしい」というのです。ろくな給料も払えないというと、「定年退職にあたって、日本共産党の宮本顕治議長から、『三宅島でアメリカ空軍の練習飛行場反対の運動がおこっている。そこのニュース作りに行ってくれ』と言われたが、『農民懇で働きたい』と言って断って来た」というのです。
塚平さんが来てから、見る見るうちに紙面が改善されるようになりました。やがて農民連が結成され、編集長として力を発揮し、新聞「農民」は月3回刊から週刊になりました。編集会議での意見はジャーナリストの面目躍如たるものがあって、遺伝子組み換えの問題や技術のことも詳しく、土のにおいのする鋭いものがありました。時にはそこでの論議が、運動や方針に反映されることもありました。全国のブロックへ編集部が出かける“出張編集会議”など画期的な試みもありました。
印象的なことは、WTOが国会で批准された無念さが覚めない正月休みに、議員会館前の座り込みの情景を一気に油絵に描いたことでした。「単なる記者ではない!」怒りに燃えた運動家の目だったと思ったものでした。
個人的には、農民連発足直後、塚平さんからすすめられて『守れ 日本農業』という本を一緒に書いたことがあります。また、山梨に土地を求めたという話を聞いて間もなく、南アルプスを背景にした満開の桃園の油絵をいただきました。また、隣町の相模原市に住む俳人の小川政則さんからすすめられて俳句を始めたようで、去年、自分の生涯を振り返った句集をいただきましたが、今では形見になってしまいました。
社会への目を開かせてくださった塚平さん、あれからちょうど半世紀!
長い友誼(ゆうぎ)と友情、戦後の農業・農民問題と運動を知悉(ちしつ)し、献身された塚平さん!
あの大空から農民連を見守っていてください。
(新聞「農民」2011.9.26付)
|