人間魚雷「回天」特攻隊の体験
元新潟県農林水産部課長 須田 恭蔵さん
敵艦撃沈できないと自爆しか道はなかった
大正15年(1926年)に新潟県旧白根市の小林村(現新潟市)で、農家の次男として生まれました。馬が好きで中学を卒業したら、獣医になって軍用馬の生産に携わりたいと思っていました。
ところが昭和18年(1943年)の春に突然、戦地から長男が帰ってきました。兄の「飛行機があれば何とかなったのに」という言葉を聞いて、「飛行機なら予科練だ」と予科練を志し、その年に海軍甲種飛行予科練習生に合格。12月1日に三重海軍航空隊奈良分遣隊に入隊しました。
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3カ月間、厳しい基礎訓練が続き、専ら体力づくりに追われました。通信の科目で、モールス符号の打ち方を習い、本来ならば1年半かけて覚えるものを、半年で覚えなければならず、1字間違えると大きな棒で殴られました。
3カ月の基礎訓練の後は、操縦と偵察に分かれることになっていました。昭和19年10月に、新兵器の搭乗員の募集があったので、「新兵器にかけてみよう」と志願。瀬戸内海の無人島にある第1特別基地隊に入隊し、そのとき初めて人間魚雷「回天」を見ました。
長崎県の川棚にある魚雷艇訓練所に入所し、2カ月間、操船技術を学び、特攻艇訓練が終了しました。12月28日に、山口県光市の回天光基地の「嵐」部隊に着任しました。入隊式では早々に4、5キロ走らされたうえに、特攻長から「きさまらの命はもらった。どんなに厳しい訓練にも耐えられるはずだ」との訓示がありました。
回天隊は、基本的に外出もできず、外への通信もできず、秘密保持が厳しいところです。訓練・教育は自学自習が基本でした。夜11時ごろに寝ていると、「勉強しないとどんな事故で死ぬかわからない」と怒鳴られ、たたき起こされました。回天兵器の構造の熟知、敵艦船の見分け方など勉強は山ほどありました。
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回天は、唯一脱出装置のない兵器で、一度発射されると、もう逃げることはできません。目的を達成できなければ、ボタンを押して自爆するしかないのです。
ただし、回天兵器も未完成であり、事故がたびたび起きていました。1000近くある部品の誤差やわずかな空気の圧力のずれなどで、命を落とした人もいました。
直径1メートルの兵器のなかで、敵艦船との距離、方向、速度を3分以内に観測し、攻撃方法を決定しなければなりません。敵への追跡を体当たりするまで繰り返すのです。
回天を搭載する潜水艦の減少や資材、燃料の不足などで、出撃が延び延びになり、終戦を迎えました。回天は1年足らずの間に、約300機が製造され、出撃で89人の尊い命が奪われました。
平和ほどありがたいものはありません。一方で、平和に慣れてしまっていることが心配です。
(新聞「農民」2011.8.15付)
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