放射能汚染地帯を行く
リポート(4)福島・飯舘村
フォト・ジャーナリスト 森住 卓(たかし)
「私には牛しかない」、牛舎借り再出発
「ここは本家だ。ほれ、こんなに草が生えちまった。人が住まなくなっと、早えもんだ」―村の「見回り隊」に参加した志賀正男さん(74)は寂しそうに言った。計画的避難が始まってすでに2カ月が経ち、人の住まなくなった民家の軒先にはオオアレチノギクが腰まで伸びていた。
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7月末、人口183人50世帯の飯舘村蕨平地区にはまったく人がいなくなった。計画的避難が決まったあと、防犯のために村は自分たちで守ろうと組織した「見回り隊」に参加した志賀さんは、奥さんの美枝子さんといっしょに一時避難先の箕輪から3時間かけてやって来た。前日、蕨平の自宅に泊まって、早朝4時半に「見回り隊」本部がある役場の向かいにある「陽だまりの家」に行った。1日3交代でこの日は昼までの当番だ。
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「やっぱりわが家はいいな」。1カ月ぶりに帰宅した志賀さん(7月28日、飯舘村蕨平) |
70歳を過ぎた身体にはきつい仕事だ。しかし、「避難先のホテルにぶらぶらしているのも辛い。少しでも現金が稼げるならと思ってみんなやってんだよ。自分のふるさとは自分たちで守ろうという気持ちもある」と、志賀さんは背筋を伸ばして、避難した民家の入り口を封鎖しているチェーンをヒョイと飛び越した。
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長泥地区で母牛に子牛を産ませて育てる繁殖農家をやっていた鴫原照二さん(52)は、村の斡旋(あっせん)で紹介された田村市の酪農家の牛舎と住宅を借りられることになり、6月に引っ越した。「長泥地区は今でも、毎時17マイクロシーベルトもある。もう戻れないかも知れない」「私には牛しかないので迷いはなかったですよ」と鴫原さんは言う。
しかし、再出発を素直に喜べない問題がたくさんある。損害賠償がまだ一つも具体的になっていない。さらに、来年出荷予定の牛が汚染していたら…。
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牛にえさを与える鴫原さんとあやかちゃん。不安とともに希望も見えてきた(7月29日、田村市) |
さらに心配なのは、一人娘のあやかちゃん(7歳)のことだ。今年、飯舘村の小学校に入学し、1年生だ。だが学校は、隣の川俣町に移転して授業を行っている。「そこには友達もいるので、ときどき川俣の学校に行きたいなと言うんですよ。新しい学校でようやく慣れて友達もできてきた」と、少しほっとした様子だ。「家族がいっしょに暮らせることが何よりですよ。当たり前なんですがね。原発事故は当たり前の生活を許してくれないんですよ」。
あやかちゃんは、新しい牛小屋で牛の世話を手伝っていた。
(新聞「農民」2011.8.15付)
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