福島の被災地を訪ねて
大震災後、すぐにも駆けつけたかったが、体調が戻って80日も経って「現場をみなければ詩は書けない」という前田新さんと私は、多忙な根本敬農民連副会長(県連事務局長)と前会長の佐々木健三さんに伴われて、福島・浜通りの被災地を訪れることができた。
人影も音もない集落
浜通りへ抜ける山間(川俣町付近だろうか)には、小雨とはいえ田畑に人影はなく、物音一つない。田畑は緑でもそれは作物ではなく、一面の雑草だ。家々から生活の息吹は感じられない。ここの放射能は、根本さんの線量計で4・8ミリシーベルト。何もなかった時の1000倍だという。
避難所で老母が
南相馬市鹿島区の海老原という集落の60戸は全部流されたが、30メートルばかり離れたわずかな高さ違いで、郡俊彦さんの家だけは流されなかった。でも一戸だけでは生活ができず、避難所生活をしていた。しかし99歳7カ月のお母さんは、戦争に行ってルソン島で亡くなったお父さんと同じ日、4月17日に肺炎で亡くなったという。
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郡さんの家の前、いまも残るガレキの山(南相馬市鹿島区) |
放射能は農山村を廃墟にするのか
農林水産業は、他の産業に比べ「復旧」は容易ではない。津波で運ばれた海水は広大な農地に塩分を残した。塩害を取り除いても、放射能汚染で人も住めない。牛に牧草を給与できない。半減期が30年という放射性セシウム。農地としても住居としても廃墟(きょ)ではないか。
それでも農に生きる農民連の仲間たち
それでも農業で生きようという農民連の人たちがいる。四散した農民連の仲間の所在を一人ひとり探し、新聞「農民」を届ける。農地や農畜産物の放射能を検査するため、高性能の核種分析装置を食品分析センターと福島県連にそれぞれ配備するという。「何千万円かかっても募金の一端を担おう」―帰ってきて自分に何ができるだろうか、そんな思いが去来する。
(小林節夫)
(新聞「農民」2011.6.20付)
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