放射能汚染地帯を行く
リポート(2)福島・飯舘村
フォト・ジャーナリスト 森住 卓(たかし)
原発事故はいつ収束するのか? 人は「希望や未来」がなければ生きられない。しかし、放射能に汚染されふるさとを追われた人々にとって、いまだ希望が見えてこない。
計画的避難区域に指定された飯舘村は5月末、村の人口の約75%、4750人が避難手続きをした。「いつ戻れるのか?」―不安な気持ちをだれもが持ちながら村を離れていった。
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マーガレットが咲いた堤の下の田んぼは、やがて雑草や芽が生えてくる(長泥地区) |
山は新緑に覆われ、ツツジやアカシアの花は満開で、村人自慢の日本ミツバチの巣から、蜂がせわしなく出入りしみつを集めていた。例年なら田植えの時期だが、田んぼには人影はなく、ツバメは巣作りの土を運ぶのに苦労していた。仕事の都合や希望に見合う避難先がないなどの事情で、村に残っている村民がまだ1000人以上いる。
牛飼いしかできぬ、移転先で再開
長泥地区の鴫原照二さん(52)は、和牛の肥育と繁殖を行っていた。「娘がまだ小さいので、これからも仕事を続けていかなければならない。他の仕事にこの年で就こうと思っても無理だし、私には牛を飼うことしかできない。幸い二本松市に牛舎を貸してくれる人を見つけたので、そこで再開する。でも、これ以上借金はできないので、被害賠償金をあてにしているが、それが決まらなければ本当に不安で夜も眠れない」と訴えていた。
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「牛飼いしかできねえから…」と移転して再開する鴫原さん |
鴫原さんは牛のほか、水田140アール、タラの芽、ミニトマトなどを作っていた。農協からの借金もまだ返済していない。「もうかえせないね」とぽつりと言った。
かつて「飯舘牛」を産出した肥育、繁殖農家120軒の多くが「休止」する。移転して続ける農家は鴫原さんなど5軒だけだ。「この地区から牛の鳴き声が消えてしまうなんて寂しくなりますよ。この地区の人たちが戻ってきて、一堂に会して酒を飲み交わすこともないでしょうね」と寂しそうに言った。
原発事故がすべてを奪っていった
村で唯一30キロ圏内に入る蕨平地区の志賀正次さん(48)は、乳牛を40頭飼っていた。事故以来、原乳の出荷停止と、と殺処分、妊娠牛などの避難が終わって牛舎はがらんとしてしまった。
「原発にほんろうされ、国と東電にバカにされた2カ月間だった。4月はじめIAEA(国際原子力委員会)の発表を撤回して『安全だ』と言い、計画的避難地域に指定され振り回された。牛の移動も自分たちの力でやった。国は何も助けてくれなかった。まだ夢でも見ているような感じで実感がない」と、がらんとした牛舎のなかで言った。
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牛同様にかわいがっていた子猫のシーザーも知人のつてで北海道に移動することになった。原発事故は最後に残されたペットまで奪っていった(志賀さんの牛舎で) |
原発事故はすべてを奪ってしまった。牛舎を出るとき、「全部終わった…」と妻の百合子さんがつぶやいた。1年先か5年先か10年先か? もう戻れないかもしれない。
牛舎の前に広がる牧草はヒザまで伸び、刈り取りの時期を迎えている。だが、蕨平地区の放射線量は1時間あたり10ミリシーベルト前後を出し続けている。
(新聞「農民」2011.6.13付)
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