「農民」記事データベース20110502-971-01

東日本大震災

放射能汚染地帯を行く(上)
リポート 福島・飯舘村

フォト・ジャーナリスト 森住 卓(たかし)


プロフィル

 1951年生まれ。共著「ドキュメント三宅島」で日本ジャーナリスト会議奨励賞を受賞。主な著書に「セミパラチンスク―草原の民・核汚染の50年」「核に蝕まれる地球」など多数。


原発からの汚染風の通り道だ

画像 「村は放射能汚染で一気に有名になってしまった」、でも「ここの電気は東北電力だ。東京電力の恩恵を受けているのは東京や周辺自治体だ。なんで東京電力のおかげで、苦しまなきゃなんねえだ?」と、農民たちの怒りが爆発している。

 阿武隈山系の標高200メートルから500メートルにある飯舘村は「飯舘牛」の名で知られる高原の村だ。地震発生後、炉心冷却ポンプの電源を失った原子炉は、急激な温度上昇により燃料棒の破壊と炉心溶融が始まっていた。そして、3月12日15時33分、福島第1原子力発電所の1号炉が爆発した。福島第1原発から北西に40キロメートルにある飯舘村は、折からの南東の風に乗って放射性物質が運ばれたと思われる。

 「夕方6時30分ころ、仕事を終えて国道399号を飯舘村中心部から峠を越えて長泥の集落に入ると、春霞(はるがすみ)がかったようで焦げるようなにおいとともに目がちかちかした」と、長泥地区消防団員の高橋良一さんは3月12日の事を話してくれた。さらに村の長老は「春先は原発の方角から風が吹いてくる。風の通り道になっている」と言う。

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被災後初めて開かれた牛の競り市。飯舘牛は風評にもめげず、通常の値がついて農家もホッとしていた。(4月13日本宮市)

 圏外にも汚染地域が存在

 私とチェルノブイリの取材を続ける広河隆一氏らJVJA(日本ビジュアルジャーナリスト協会)のメンバーは、3月15日、飯舘村やその先の伊達市月館地区布川で高濃度の放射線量を検出していた。地形や気象条件で汚染地域が決まることを、セミパラチンスク核実験場やチェルノブイリ原発でたくさんのデータを見ていた。政府は屋内待機や避難地域を30キロ圏内にとどめていたが、それ以外でも飯舘村などの放射量の高い汚染地域が存在することは当然予想していた。

 政府が「避難計画地域」に指定したのは、汚染が始まって1カ月が経っていた。「遅すぎる」、住民たちの率直な気持ちだった。その間の長泥地区にずっと居続けた住民の積算線量は、およそ20ミリシーベルト前後になる(森住の計算)。これは「計画的避難区域」の基準となる年間被ばく量(20ミリシーベルト)と同等だ。ここで長期にわたって生活することはできない。

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原乳出荷停止で栄養のあるえさを与えられず、死亡した牛は汚染しているために、酪農家が自分で埋葬しなければならない。(4月16日飯舘村蕨平)

やせ細る牛の鳴き声 たまらない

 売らなければエサ買えない

 田中正一さん(40)は、飯舘村長泥で40頭の乳牛を飼っている。10年前、飯舘村に土地を見つけて酪農を始めた。あと数カ月で10年になろうとしていた矢先の地震と原発事故だった。地震による停電で、搾乳機もクーラーも発電機を使って動かしてきたのに、原乳が放射性物質で汚染し出荷できなくなってしまった。売れなければえさも買えない。牛は血液をミルクにかえる動物。えさをあげなければ、身を削ってミルクを出そうとする。やせ細っていく牛たちを見ていると「かわいそうで、かわいそうでたまらない。耳をふさいで鳴き声が聞こえないようにして牛舎から出るんですよ」と、田中さんは目を潤ませる。1カ月間完全に収入が絶たれた。「補償を受けるために殺すな」という指示だから、えさは少ししか与えられず生かしている。いっそのこと薬殺してあげた方が牛にとっては幸せなのかもしれないと言う。事故前は毎日朝3時に起きて牛舎の掃除、給餌(きゅうじ)のあと搾乳をしてきた。今は張り合いをなくして、6時に起きて必要最低限の作業しかやっていないと言う。「もうおしまいだ」とつぶやいて原発がある南東の山並みを見つめていた。
(つづく)

(新聞「農民」2011.5.2付)
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2011年5月

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