証 言
私の戦争体験
鹿児島県鹿屋市 真戸原(まとはら)勲さん(86歳)
鹿児島県農民連・吾平(あいら)農民組合長の真戸原さんは、人間魚雷「回天」の基地で終戦を迎えました。毎年8月になると、必ず思い起こす経験があるといいます。
戦場で散った農民の遺志継ぎ
農民連で最後まで生き抜きたい
1944年10月、日本帝国海軍は、制空権も制海権も奪われているなか、フィリピン・レイテ島沖で艦隊を総動員した最後の特攻的作戦を敢行し、私は少尉として従軍しました。私の乗艦である「利根」は、海軍の中でも最速を誇る重巡洋艦でした。
レイテ沖に向けて艦隊が隊伍(たいご)を組んで航行中、艦隊の長官や艦長などの上官から、レイテ沖海戦では「全員決死する覚悟をせよ」と指令があり、私のような下級将校をはじめすべての乗員は「いよいよ明日は決死だな」とそれぞれ決意したのでした。
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決戦前日の10月23日夕方、「利根」の砲術長だったJ中佐が、甲板で部下をひどくののしり、制裁の鉄拳を加えている場面に遭遇しました。中佐は「この土百姓(どんびゃくしょう)が」といって兵を責めています。私は、理由は何であれ「明日はいっしょに死ぬ身ではないか」とカチッときました。
海軍兵学校試験のとき、身分の項の「平民」のところに○印をして心に引っかかっていたことも思い出され、「こんなことで日本海軍がアメリカに勝てるものか」と、私の血の中の農民魂が、一瞬ですけど火をつけられた思いでした。
20歳のときに聞いたこの農民をばかにした言葉は、86歳の今日も昨日のことのように脳裏に焼き付いています。
レイテ沖海戦は日本海軍の大敗に終わり、艦隊はほとんど壊滅しました。「利根」は沈没をまぬがれ、私も辛うじて生き残りましたが、内地に戻った私は「もう早く華々しく死ぬことだ」と決意し、人間魚雷に志願。山口県旧徳山市沖の「回天」基地に着任したのが45年の7月半ばです。そこで終戦を迎えました。
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故郷の鹿児島に帰り、父母と幼い妹たちと、まずは飢えをしのぐために戦時中荒れていた田や畑を開墾しました。
そのうち、戦前の弾圧を受けて郷里にいた共産党員の山下初という人に出会い、「人は何のために生きるのか」ということを教えられました。また、労働者と農民が同盟して二度と戦争のない平和な日本をつくる道を教えられた私は、その後さまざまな社会運動に参加し、共産党にも入党。鹿児島県の農民組合の再建にも加わりました。
軍隊から自衛隊に代わっても、農村からは多くの若者が戦争準備にかり出されています。しかし、私たち農民のたたかいも、国内ばかりでなく、ビア・カンペシーナの仲間たちとも手を携えて世界に広がっています。
私は、この農民連の一員として最後までたたかえる喜びをかみしめながら、人生を生き抜きたいと思っています。
(新聞「農民」2010.8.23付)
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