証 言
私の戦争体験
福島・二本松市 遊佐美智子さん(72歳)
フィリピン山中の逃避行
3人の弟妹を亡くした
福島農民連の産直米を利用している遊佐さんは、フィリピンのマニラ生まれです。学校に入るまでは平穏な生活でしたが、1944年になると連合軍が迫り、父は現地召集、母は6歳の美智子さんを頭に4人の子どもを連れてジャングルへ逃げました。
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母は荷物だけで両手がふさがってしまうので、私が1歳の妹を背負って、ジャングルの中を逃げ回りました。母は荷物の中に手榴(しゅりゅう)弾を隠していて、「触ってはダメ」と、きつく言われていました。捕まったら殺される、という考えしかなかったから、その前に死ぬつもりだったのだと思います。
食べるものはほとんどないので、盗んだり盗まれたり、草の根やヘビやカエルまで食べました。
最初に4歳の弟が亡くなりました。母に抱かれて「ご飯が食べたい、おにぎりが欲しい」というようなしぐさで、手をぶらぶらさせて死んでいったのが、強烈な印象になって残っています。
私がおぶっていた妹も、いつの間にか背中で死んでいました。3歳の妹も亡くなり、掘る道具などないので、手や石で土を掘って埋めてやりました。雨が降ったら出てきてしまうようなものでした。
いっしょに逃げていた人たちも、土手の窪(くぼ)みがあると、まもなく死んでしまうような子どもをそこに置いていきます。「お、か、あ、ちゃーん」と母親を呼ぶ声がつらい思い出です。
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1944年ころの家族の写真 |
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毎日のように米軍機から爆弾が落とされます。何回も何回も。薄暗くなると、みんな黙々と歩き出します。雨の中、つり橋から川に落ちた人もいました。「うわぁー、どぼん」って音が。自分はどうやって渡ったのか、無我夢中だったので覚えていません。
くたくたに疲れて休み、朝、目を覚ますと、何人もの人がそばで死んでいました。ウジがわくくらい腐っていましたので、かなり臭かったと思いますが、自分も臭かったので、何も感じませんでした。
やがて飛行機から白いものが落ちてきて、終戦を知らせるビラでした。おとなの人たちは泣いていました。
その後、米軍のトラックに乗せられて収容所に。わずかでしたが食事ができたとき、「もっと早く捕まっていたら…」と思ったのですから、食べものがないつらさはどれほどだったかと思います。
私はいちばん上だったので生き残ることができたのだと思いますが、あと1カ月、戦争が続いていたら、死んでいたのではないかと思います。
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11月ごろ内地に引き揚げて、屋根のない貨物列車に乗って父の実家に身を寄せました。食糧不足の時代で、肩身の狭い思いでした。無一文になった父がぼろぼろの姿で帰ってきたのは、雪の降る寒い日でした。
9カ月間のつらく悲惨な生活は、一生忘れることができません。
(新聞「農民」2010.8.16付)
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